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憲法改正の論点整理 −集団的自衛権と国家像−
  文・佐藤鴻全氏

参院選が終わった。民主が伸び、自民の凋落が明らかになったが、公明に支えられて表面上の議席数ではそれ程負け込まず当面政局になる事は避けられた。参院選では年金問題が主な争点だったが、次期衆院選では憲法改正が俎上に上がると見られている。特に今後年金問題等で民主の責め方が甘く、小泉政権が死に体ながらこのまま延命を続け、衆院解散が任期切れの3年後に近付けば近付く程この傾向は強まるだろう。

いずれにしても、国際情勢等が風雲急を告げ、憲法改正容認の国民世論が過半を占める今、政局如何に関わらずその論点を整理して置く事が必要であるのは言うまでもない。


◆結論が見えてきた諸論点

少し前までは、国際貢献として国連の集団安全保障活動に参加するに当って武力行使を含めるか否かが最大の争点であったが、6月に出た民主党の憲法改正素案で武力行使については「最大限抑制的」という条件付きながらこの肯定が明示された以上、自民党も同じ土俵に立つ事を迫られる。また、前の参院選での共産党、社民党の大敗を見ても、国民世論もやがてこれらの容認へと収斂して行くだろう。

その他「環境権」等の諸人権、地方分権等を強化する方向性は、程度は別として概ね各党も一致して賛成する事項である。また、国民の権利と義務の問題もこれらを条文上精緻に書き込み組み上げる作業は重要な事であり国民、マスコミが監視して行くべき事であるが、要はバランスの問題であり、筆者は言われている程実質的な争点にはならないと観る。

それでは残された大きな争点は何かと言うと、筆者は集団的自衛権の問題と国家観、国家像を前文でどう描くかであると考える。


◆残された論点(1)  集団的自衛権

集団的自衛権とは、国際法上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず実力をもって阻止する権利を言う。

現憲法第9条に「・・・国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とある。内閣法制局及び歴代自民党内閣は、この条文を基に日本は集団的自衛権を有しているが、その行使は出来ないとして来た。

しかし、元々国連憲章で、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置を取るまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」(国連憲章第51条)と明確に規定されている通り、集団的自衛権は国連の錦の御旗の下、国連軍、多国籍軍が編成される等の間の緊急避難的なものであり、現憲法下でも法的にも行使は認められており、国益の面でも認められて然るべきと筆者は考える。

さて、この集団的自衛権の行使を憲法改正の際にどう扱うかが争点になる。当然の権利であり敢えて明記すべき事もないというものから、行使出来ない旨を書き込むべきというものまで、立場により幅広い意見がある。

筆者は、前述の様に行使が認められて然るべきと言う立場から、現憲法下で解釈が分かれる以上、行使できる旨を明記すべきと考える。

だがその上で、現状を見るに、現小泉政権が極端なアメリカ追従であるのは論外としても、筆者は、この集団的自衛権の行使の明記が、現にイラクで起きている事に上乗せして今後も「アメリカの(侵略)戦争」に無制限に付き合わされる「自動参戦装置」となりかね無い事を懸念する。

本来、我が国が集団的自衛権の行使が緊急性と国際正義及び国益に適うと判断する事態が生じたら、主体的に行使すればよいし、その逆なら行使しなければよいだけなのだが、国防をアメリカに大きく依存している現状を考えれば、今後の政権もアメリカからの圧力に耐えられるか心許ない。

そこで、筆者は「国際社会の同意が得られる場合に限り」その行使を妨げない旨を書き加えた上、当面のテクニカルな対応として、第1段階の憲法改正としては、日本が自主防衛の充実等により相応の国際的発言力を得るまでは集団自衛権の行使について敢えて「我が国の安全に対し喫緊の影響を与える場合に限り」等の制限を付け、第2段階として、その制限を削除する「2段階改憲論」を提唱したい。

なお、国連の錦の御旗の下に行われる「集団安全保障活動」とそれが発動されるまでの繋ぎである「集団的自衛権行使」は、国際社会においてもより明確に区別されるべきである。


◆残された論点(2)  国家観

もう一つの論点となるのは、順序が前後したが国家観を憲法前文にどう書き込むかになる。所謂「国がら」については、中曽根元首相等主に自民党側からは、憲法の前文には、「どこの国にも当てはまるものでない日本の国がら、伝統を織り込む必要がある」となるが、一方の先述の民主党の素案では、「地球市民的」的要素を大きく謳うべしとされている。筆者はこれらについても、両方の要素が必要であり、落とし所を探るべき課題であると思う。

それ以前の観点として、筆者は、憲法前文には、先ず国家観として国家とは何かという普遍的な原則、「主権国家と国民の関係、具体的には国家は国民及び社会を保護育成する基盤、公器であり尊重されるべきと共にその目的範囲を逸脱し国民を圧迫したり、他国に脅威を与えるべきものではない事」等の基本的な事項を書き込む必要があると考えている。

市民革命を経た欧米や宗主国に対し解放戦争で自ら独立を勝ち取った旧植民地の国々は、国家とは何かと言うのが国民の血肉になっていて、敢えて言葉にして語らなくても庶民であっても体で理解しているように思う。前の参院選での投票呼び掛けのCMの中でサッカー選手の中山ゴンがスタジアムのサポーターに叫ぶ「日本に関心を持てるのは、スポーツだけですか」ではないが、日本は幸か不幸か、市民革命も独立戦争も経ていないので、国民が国家とは何かをよく分かっていないと思える。

国家観は言わば国家の背骨であり、筆者はこれを欠いている事が日本がこの10年余り昏迷し漂流を続けており、諸問題を解決できない根本原因であると捉えている。


◆残された論点(3)  国家像

次に、筆者は今後国の向かうべき方向性を定めるために、具体的な国家像、国のかたちを憲法前文の中に書き込むべきだと考える。

現在日本は、冷戦終結後の国際環境の中、従来の相互依存型社会から、アメリカ型弱肉強食的自由競争社会の流入の中に投げ込まれ、2つの価値観の間で翻弄されどこに進むか方向性を失っている。筆者は、この一見相矛盾する2つの価値観を「ナショナルミニマムを伴う自立社会」等として構造的に整理統合し、国民に一定レベルの安心を与えると同時にある種の覚悟を促し、今後の繁栄の基礎となるものに組み上げるべきと考える。

また、この演繹として、国際社会に対しては、例えば「世界の発展と調和の同時実現」を目指す事を理念として掲げ、今後激動が予想される国際社会を方向付け、必要に応じて国際紛争の解決を仲介する縁とすべきと考える。

各国の憲法では、例えばイタリア憲法には前文自体がない等、一般に前文は短いのだが、筆者は、憲法は現実世界を規定する機能的なものであるべきとの考えから、数行から10行程度増えたとしても、これらの事を前文の中にキッチリと書き込むべきとの立場を取る。そして、もし時流に合わなくなれば、適宜改正可能なように、硬性憲法である事は維持しながらも、その条件を緩める事が必要と考える。

以上、憲法改正について筆者なりの論点整理をしたが、各党あるいは各勢力には来年半ばの憲法調査会の最終報告を必ずしも待つことなく、素案を出しぶつけ合い論点を洗い出す事が望まれる。

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