【読者投稿】
「亡国ニ至ルヲシラザレバ之レ即チ亡国ノ義」
文・近藤元氏
雨乞いをする議員たち
二〇〇四年六月二十四日に第二十回参議院議員選挙が公示された。今回の選挙の争点は、自衛隊の多国籍軍参加や年金改革、景気回復だと言われている。しかし超弩級集票マシーンの目玉タレントがいないことや、年金問題があからさまになったことから、低投票率を望み、組織票のみに期待するという選挙の意義を完全に無視した発想の議員もいるそうだ。連日続く彼らの街頭演説で、「投票には来なくていいですよ」と呼びかけることは出来ないだろうから、差詰め投票所まで運ぶ足を遠ざける台風の直撃でも願っていることだろう。
ならば、これまで一度も日本には政治も議論もなく、自分たちが決めた枠の中で国民は動いていればいいと開き直った背徳的な議員しかいなかったのかと過去に目を向ければ、国民の代表者として、民意を背負って権力構造に立ち向かい、花と散っていった議員もいたのだ。
真の公僕
一八九十年の第一回総選挙で栃木県第三区衆議院議員に当選、国会で足尾銅山鉱毒事件に取り組み、生涯を鉱毒問題と治水事業に捧げた男がいる。彼こそ真の公僕、田中正造である。
田中正造こと田中兼三郎は下野国安蘇郡小中村(現佐野市)に生まれ、十九歳の若さで、父の割元役昇進に伴い名主となる。そして二十七歳の時、主家の旗本六角家を恣にしていた筆頭用人林三郎兵衛を六角一族に直訴した。これが彼の反骨・正義に満ちたある意味愚直とも言えるストーリーの始まりである。
田中正造というとまず足尾銅山鉱毒問題を想起させるが、それ以前の経緯を紹介する。
入牢、追放、冤罪、そして
直訴を知った林三郎兵衛は、刺客を送り込み、幕府役人を収賄し、結果正造は造反の罪で投獄された。しかし十ヶ月後、若い吟味役の下した沙汰は追放と直訴内容の受け容れというものだった。
釈放後、しばらくして江刺県閉伊郡遠野町(現秋田県鹿角市)へ行き、そこで下級官史となるのだが、赴任先である極貧の村を正造と共に救った上司を殺害したとする冤罪で逮捕されるのである。上司が村を救うことを疎む者がおり、その者から見れば正造もまた厄介者の一人だったのだろう。
取り調べでは鞭打ちにされ、審理は拷問付きのものであった。実際の拷問具は明治大学刑事博物館に行けば見ることができるが、想像に耐え難い、残酷極まりないものであったことだろう。しかしそれにも耐え抜き、岩手県盛岡市の監獄へ移送される事となった。そしてまたしても、正しい指導者によって無実が証明され、無罪放免となるのである。官吏から一変、獄中生活を経て、栃木県佐野の小中村に帰郷する。
帰郷後、酒屋の店番となるも、真っ直ぐな性格が災いして暇を出されることになる。また村の夜学の教師となるも、西郷隆盛を庇う発言から失職してしまう。そんな正造であったが、西南戦争による物価の暴落時に土地を買い付け莫大な利益を得ることとなる。しかし、それで満たされる男ではない。家族が生涯暮らすにも足る財産を得たにも拘らず、それを公共の為に使うことを決心するのである。
その第一歩が『栃木新聞』を創刊する事であった。新聞といえば、貴紙『行政調査新聞』は世界情勢や国内外の政局に関する記事・報道だけではなく、地方行政の不正や怠慢を糺すことを中心に据えておられるように見受けられる。
『栃木新聞』は幾度かの廃刊の危機を乗り越え、東京横浜毎日新聞の野村本之助を社長に招来し、本格的な自由民権運動の中核をなす新聞として成長した。若い記者達は情熱に燃え、過熱した政治記事により幾度も罰金を課せられたり、編集部員が逮捕監禁されたりと弾圧を受けながらも、地域の民権思想発展に貢献した。
政治家田中正造の誕生
新聞創刊と同時に県会議員選挙にも立候補した。一度は落選したものの、後の補欠選挙で当選。政治家田中正造が誕生したのである。そして栃木県史で悪名高き権力者である三島通庸との戦いが始まる。三島通庸は薩摩士族の出身で酒田県令、福島県令を歴任した後に栃木県令として赴任してきた。伊藤博文という強い後ろ盾を持ち、先々で行った暴挙も中央は目をつぶった。
田中正造は、多くの県会議員同志とともに、県令三島と戦ったが、県令三島の行動を一時的に妨害する程度の抵抗しか出来なかった。むしろ三島通庸に刺客を送り込まれる始末であった。この事もあって、刺客を避け、一度は東京に逃れた正造であったが、再び帰郷すると、早速三島通庸の暴政を証明する証拠集めに奔走した。
しかし正造は、群馬県の館林町に入った折、三島通庸を爆弾テロで暗殺しようと計画したとして、自分が指名手配されている事を知るのであった。再度東京へ逃れ、外務大臣井上馨に証拠の書類を提出することを考えたが、指名手配となっている者が役所に赴けばどうなる事か目に見えている。集めた資料は日の目を見ないことになる。そこで正造がとった行動は、警視庁への出頭だった。かといって、自首した訳ではない。証拠資料を提出する先を外務省から警察庁に変更しただけなのである。
その結果は当然のように拘束され、やがて宇都宮へ護送されることになる。再度の獄中生活。もちろん暴行、嫌がらせの連続である。県会議員との面会を絶たせるために県都から離れた佐野警察署へ移されるなどしたが、辛抱強く獄中から県令三島との対決文を支持者に送り続け、正造の叫びは民衆の叫びとなって権力者伊藤博文に届く。ようやく伊藤博文も右腕である三島通庸を解任せざるを得なくなった。
疑い晴れて釈放。民衆から権力に屈しない男田中正造へ拍手喝采が浴びせられた。県民の歓声は途切れる事無く、やがて栃木県会議長に推輓された田中正造であったが、地方議会の限界を痛感し、国政参加への決心を固めるのであった。
一八八九年、大日本帝国憲法が発布。式典のために皇居へ栃木県会議長として出席した田中正造は喜びに涙した。この憲法を遵守している限り、これまで自分や民衆を苦しめたような不合理は二度と起こらないのだと確信したのだった。そして翌年七月一日。日本初の総選挙で衆議院議員に当選し、足尾銅山事件に奮励、死刑を覚悟しての議員辞職、そして明治天皇直訴まで、わずか十一年、国会議員生活の幕を閉じることとなる。
民が生きて国が生きる
逓信大臣の汚職問題、保安条例への異議、大蔵大臣の資産公開要求、教育問題等々、政治家として田中正造が取り組んだ枢務は数多ある。また足尾銅山事件の詳細、自由民権運動について、彼の功績等、語るべきテーマは無数にあることだろう。しかし今回この投稿で、国会議員になる前の人生について書かせていただいたのには理由がある。
参院選を目前とし、候補者と国民は、今一度政治家とは何なのか見つめ直す必要があると思ったからだ。私腹を肥やすことだけに奔走し、困窮する隣人に手をさしのべぬ政治家志望の者などには投票したくない。政治家とは私達の代表者であり、代弁者ではなのではなかったのか。足尾銅山事件を見よ。瑞穂の国の美しい自然を破壊し、農作物を奪い、人々が苦しみ喘ぐという状態を作ることが政治仕事ではないはずだ。演説に騙されるほど民衆は愚かではない。しかし愚なる為政者を選出することは、国民一人一人の責任でもあるのだ。だからこそ国民を思い、国の未来を憂い立ち上がる本当の公僕たるべき人に投票したい。私は第二の田中正造たるべき人を見つけ投票したい。
最後に、田中正造の議会質問書の一部を今回の選挙の立候補者に対して投じ、本投稿文を閉じたい。
民ヲ殺スハ国家ヲ殺スナリ
法ヲ蔑ニスルハ国家ヲ蔑スルナリ
皆自ラ国ヲ毀ツナリ
財用ヲ濫リ民ヲ殺シ法ヲ乱シテ而シテ亡ビザルノ国ナシ、之ヲ奈何
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