|
防衛論考:米同時多発テロを考える
■文/(社友)阿悠 幸友
9 月11日に米国で起きた同時多発テロは、おそらく死傷者合計1
万余を超える同国建国以来の惨事であったとみて間違いなかろう。ブッシュ大統領は、「これはテロ行為をこえた戦争行為だ」と叫んでいるが、世界のテロ犯罪史上を見てもその作戦の大胆さ、効果
から見て最大のものといえる。
15日現在、米上院は大統領が提起している「武力行使」について全面
的な賛意を決議し、NATOもこのテロ行為に対して「集団的自衛権を発動する」と決定した。NATOの中でも米国にとって第一の朋友というべきアングロ・サクソンの先達=英国は、臨時議会を招集して「テロ組織の徹底した壊滅まで戦う」と表明している。そして、我が国の小泉首相も米国の姿勢への「支持」を表明してきた。
この事件については、本紙上で背景についての詳しい考察と解説があり、諸兄にはそちららをよく吟味していただきたいが、筆者はここでこの事件を考える上で「軍事・防衛技術的側面
」から簡単な考察を論述して提供したい。政府系(日米)の発表ネタの横流しをコトとするマスコミ情報や、「評論家」の論を見聞し、自らお考えになる際の参考にしていただければありがたい。
作戦規模、与えた損害がいかに大きくとも事件の本質はテロ犯罪
まず、今回の事件を考察する場合に大事な前提は、いかにその行動が組織的かつ大胆、大規模で、米国民をはじめ民間人の犠牲、米国経済の受けた損失が大きかろうと、同時多発テロはブッシュがいうが如き「戦争行為」ではなく、テロ犯罪であるということだ。
「戦争」とは、古くはプロイセン帝国将校クラウゼヴィッツが著した『戦争論』や、それをひき写
した赤色ロシア・ボリシェビキ指導者レーニンによる「政治とは血を流さない戦争であり、戦争とは血を流す政治である」との定義が基礎として普及しているが、今日の到達に立てば国際法上、「国家(あるいは国家に準じて一定の地域に実効支配を及ぼす勢力)と国家間の組織的な武力行使による紛争」で国連憲章上は「違法行為」と定義されている。
つまり、「戦争」とは新旧の定義からいうなら、国家間の表面
化している組織的な武力闘争を指すのであり、今回のようなハイジャックした旅客機をもって特定構築物を破壊する行為は、確かに米国及びその同盟国に対する攻撃であることは間違いないものの、テロ犯罪の域を出るものではない。第一、現在のところ客観的に犯罪をおかした組織主体が明確になっておらず、米国などがさかんに「黒」と言及しているラディンの組織にしても、決して国家であるとかそれに準ずる勢力とは言いがたいものがある(「タリバン=ラディン」ではない)。これは言わば、かつての連合赤軍によるテルアビブ武装襲撃のようなテロ事件と同種のものと考えれば、容易に理解できることである。テロリスト組織は犯罪組織であって、国家ではない。
こうした犯罪組織に「集団的自衛権」の行使を宣言し、数カ国軍隊による軍事行動をもって「制裁」を加えることは、国際法上、論理が成り立ちにくいものである。犯罪の取り締まりについては、その分野における国際的取り決めやシステムがある。とかく大規模な軍事行動を実施するという結論を先行させて、あとから論理をつくっていくやり方は、それを主導する国家の「機に乗じて」との意図を感じざるを得ない。
拙速な前提による「大規模軍事行動」は、脇の甘さを突かれる可能性が
次に軍事技術的側面から見ても、いま米国を主導者として進められつつある湾岸戦争以来の大規模な軍事力行使は、今回のテロ犯罪に対する「制裁」としてリスクが大きいものであることを指摘したい。
ここでは、テロリスト組織に対する軍事作戦の歴史的教訓に立って論じてみよう。
前述した法理からは、テロリストと区別される存在ではあるが、彼らが軍事行動の教科書としてきた武力闘争を展開してきた存在に、20世紀半ば以降の戦争に普遍的な闘争形態に成長してきたパルチザン、ゲリラ組織の闘争がある(ここでいうパルチザン、ゲリラは民間人と混在して敵側正規軍や時にはゲリラ部隊と闘争するものを指すが、いずれもテロリストとは違って国家・政府から間接、直接の指導を受けている)。
ゲリラ闘争の歴史的事例の中で、正規軍に対して大いなる効果
を発揮したもの代表として、第2 次世界大戦のロシア戦線におけるパルチザン闘争と1950年代末以降にベトナムで活躍した南ベトナム民族解放戦線(いわゆる「ベトコン」)があげられる。両者ともいわば敵側が「実効支配」を宣言した地域内に潜伏、その影響範囲を拡大しながら社会インフラの破壊、要人の暗殺、協力住民の「制裁(処刑)」など低強度でありながら執拗な闘争を展開し、これを制圧しようとする正規軍部隊を翻弄しつづけた。これらの勢力に対して正規軍が戦う上で教訓的だったのは、以下の点だ。
(1)ゲリラは正規軍にない機動力を発揮−捕捉が困難
ゲリラ部隊は通常、大規模な装備をもつ正規軍部隊や兵士より機動力に富み、道のない山岳地帯や森林、湿地帯に潜むと「討伐」側には対処のしようがなかった。これは、人間の「足」だけの問題ではなく、武器を隠匿すれば民間人に容易に溶け込めるという点もゲリラ側の機動力を構成する大事な要素だ。
これに対抗するため、ロシア戦線のドイツ軍はやみくもに機械化部隊や戦車まで投入したが、かえってパルチザンの補足を困難とした。それどころか投入した機械化部隊に対する補給路を後方地区で遮断されるケースまで生じ、かえって貴重な正規軍将兵や装備の損失を増す結果
となったのである。また、ベトナムにおける米軍は、ヘリコプター機動を導入し、前進基地や圧倒的火力を誇る砲兵部隊・航空隊と併用して「サーチ・アンド・デストロイ(捜索殲滅)」作戦を展開したが、広大な森林地帯に針を突いていくようなもので、ベトコン支配地域の拡大を防ぐことはできなかった。
(2)民間人を巻き込んで「道義的失墜」をまねく
ゲリラ(そしてテロリストも)の最大の特徴は、民間人やその居住地区と混在化していることである。そうでない場合は、人跡未踏の森林や山岳地帯に隠遁している。やっかいなのは、彼らの軍事行動は民間人が通
常は避難している戦場ではなく、居住地区や都市周辺で展開されることだ。
こうした勢力に対して正規軍が大規模な火力戦を実施すれば、必ず居住地区インフラや住宅その他の民生施設を破壊すると共に、婦女子を含む民間人多数を殺傷することになってしまう。これは、軍事技術のハイテク化が進み「ピンポイント攻撃」が可能になった現在においても避けられないことは、ロシア軍のチェチェン共和国における侵攻戦闘の現実がよく示している(ロシア軍は、ドダエフ大統領を衛星誘導砲弾による射撃によって、一撃で殺害することに成功している。にもかかわらず、戦闘は首都グロズヌィの全面
的破壊や道義的破綻をきたしたロシア兵による略奪暴行等の犯罪を含め、破滅的様相を呈している)。そして、この「敵軍による民間人殺傷」こそがゲリラ側の狙いでもあるのだ。
今回のテロ事件そのものが、関係のない民間人多数を殺傷する卑劣なもので、それ故に背景はどうあれ世界中の世論が支持するものではない。自爆テロをこととするパレスチナ過激派ハマスの指導者ですら、「攻撃は軍に対するものであるべきで、非戦闘員の殺傷は許されない」と批判している。しかし、いま米軍とNATOが準備している如く正規軍を動員し、テロリスト勢力の「本山」があると見なされる地域へ大規模な空爆を展開して、その後に地上侵攻を実施すれば、どうなるであろうか。いかに人口密度が希薄であろうと、テロリスト勢力と民間人を厳密に隔離する訳にはいかないので、多かれ少なかれ民間犠牲が出るのは間違いない。
「多少の犠牲は目をつぶる」ということは、今日の国際社会に通
用しない論理で、必ず参戦国内を含め国際世論に波紋を広げ、はからずも攻撃を受ける側への同情やシンパシーまで生じさせることになる。まして、現場の将兵にとってもこうした作戦は過度の心理的負担となり、道義的頽廃を招くことは多くの経験が示していることである(ベトナム戦従事の米将兵の麻薬汚染等)。そして、米国及び同盟国の「道義的失墜」につながる可能性があり、無謀なテロ作戦ではあったがここにもテロリスト側の二次的な狙いがあることは明白なのである。
(3)結局、「最終解決」としてのジェノサイドへの傾斜と報復を招く
前項で述べたように、対ゲリラ戦における大規模な軍事力行使は、民間人の犠牲を必然的に招く。そして、これがまた新たな「敵」を作りだしていく。ここに不正規部隊としてのゲリラの生命力があるのだ。
この民間人とゲリラとの混在化と結合がネックであることは、彼らと対戦した正規軍指導者たちなら、誰もが早くから認識したことであった。
ベトナムの米軍は、この結合を断ち切るために、農民を「保護区域」に移住させる「戦略村計画」を進め、お仕着せの民生援助(医療や住宅建設、食料援助)を行ったが、結局、民間人に対する細やかな配慮(こんなものは正規軍が持ち合わすものでもない)もなく、本質的に「アングロ・サクソン人種は東洋人(=グーク)よりも優越している」という世界観に立った乱暴な政策であったため、かえって一般
住民の反発をひろげ、ベトコン勢力の伸長を防げなかった。
また、ロシア戦線のドイツ軍は、パルチザン部隊に参加した多くの者がユダヤ人であった事実を利用して、人種的・民族的に異なる住民を「自衛軍事組織」に編成し、パルチザンと戦わせながら離間を図ったが、かえってこれら「自衛組織」による残虐行為がパルチザン側に道義的支持を広げて逆効果
を生んでしまった。そこで、ヒトラーがいうところの「最終解決」としての徹底したジェノサイド(住民皆殺し)戦術が採用され、特にバルト三国やベラルーシ地区で実施されたが、結局これも、ユダヤ・半ユダヤ系住民をソ連共産党指導下のパルチザン支配地区に追いやることとなり、意図に反してパルチザン勢力を伸長させ、その戦意をも旺盛にかきたてる結果
となってしまったのである。
民間人生活地域における低強度不正規戦に従事する正規軍部隊の中に、ジェノサイドへの傾斜が広がることは多くの歴史的経験から確認されることだ。そして、これもまたゲリラ側に利用され、彼らの支持基盤をひろげることにつながってきたのである。こうして支持基盤をひろげた彼らは、新たな力を利用して正規軍の後方地区から、さらには本国の民間施設に至るまでの「報復攻撃」を繰り返していくことになる。
いわばこの「泥沼化」こそがゲリラ(ひいてはテロリスト)の最大の狙いであり、不正規戦の理想的姿なのだ。
そして、いちばん恐れるべきことは、正規軍投入による社会組織や財政の投入により、参戦当事国の後方地区、特に民間レベルでのセキュリティーがおろそかになっている場所が、容易に「報復攻撃」のターゲットになることだ。「脇の甘さ」を突くことが、ゲリラ・テロリスト戦術の鉄則でもあるからだ。
なすべきことの第一は、重要公共施設のセキュリティー向上
大規模な軍事行動のリスクは、述べればまだキリがない。いずれにしろ、間違いなくここ半年間は米国主導で空爆を皮切りとする軍事作戦が展開されるだろう。そして、「ハイテク軍事ショー」が湾岸戦争の時の再現よろしく繰り広げられることも確実だといえそうだ。
日米安保条約により、米軍の駐留を受け入れ、これへの支援を自ら義務づけている我が国は、この軍事作戦によるリスクの影響をすべからく覚悟しなければならない。
では、我が国はいま何をすべきなのか。前述した筆者の「軍事行動不賛成」の立場からすれば、いささかおかしく感じられるかもしれないが、今回の同時多発テロを受けた場合、米国だろうと我が国だろうと、そしてこれから何者による「軍事的制裁行動」が発動されようとどうであろうと、当面
とるべき最優先の策は、共通して重要公共施設のセキュリティーの向上であるといえる。
これは、暫時的・断片的に伝わってくるテロ事件の様相から冷静に判断すれば、容易にたどりつく結論である。
というのは、今回のテロは、数人ずつのパイロット・ライセンスを持つテロリストがハイジャックした旅客機を「巡航ミサイル」よろしく重要目標への攻撃に用いたということに尽きるのであり、単純にいえば空港における乗客や職員へのチェック機能が正しく働いていれば、ほぼ
100%防げたテロ行為だからだ。
実際、今回の事件の「 2〜 3週間前」に米国は、テロ発生を予期して、日・韓などの同盟諸国にセキュリティー情報を提供していたことが報道や政府筋から伝えられているが、筆者も我が国において実際に重要公共施設の警備強度が向上させられていたことを把握している(実際は、
2〜3 カ月前からだと思うが)。
これが米本国でどのように実施されていたのか。
どうも「米軍基地の所在する国において、同盟国間の離間を狙ったテロが発生しそうだ」との情報に踊らされて、本国のセキュリティー・チェックがおろそかになっていたのではないか。筆者は、今回の事件をそう推測している。この、判断を誤り、自国民のみならず邦人を含む多数の各国民間人の殺傷を許してしまった米国政府の責任は重大であり、事態を全面
的に解明して明らかにする道義的責任がある。大国政府である以上、「被害者づら」ばかりしている訳にはいかない。
いずれにしろ、今回のテロリスト勢力が「軍事制裁」の有無いかんにかかわらず、二の手として展開してくる可能性が高いのは、引き続き空港や港湾、鉄道・道路施設など不特定多数の民間人が集中しつつ社会経済活動に重要な影響を持つ公共施設への攻撃だ。
その次に可能性があるのは、政治、経済、あるいは学術分野も含めた各国重要人物やその家族の誘拐・殺害である。
今回の同時多発テロが示したように、こうした攻撃は各国に長く潜伏し準備を重ねた要員が実施することになる。仮に米国を中心とする軍事作戦が、テロリスト勢力の潜伏する地域を制圧したとしても、おそらく洗脳されたテロリストたちの中に「プログラミング」された次の段階の行動は、何ら制約を受けないものとなろう。
本当にやるべきことは、同時多発テロ実施のメカニズムの解明であり、そこから推測しうる次の作戦展開とその体制の把握だ。そのためには、外務省を中心とした情報獲得活動の旺盛な展開とそのための国際協力の組織が特に重要となろう。
国内におけるもっとも効果的な対処は、警察力及び各所管官庁の総力を結集した攻撃対象可能性施設のセキュリティー向上と情報収集、潜伏勢力の追及である。そして、強度の武装攻撃が予想される施設や地域に対して、警察力その他での警備では不十分と認識される場合については、我が国では自衛隊による警備実施も検討されるべきであろう。
現在、周辺事態法の適用も含めて、自衛隊は米軍施設とその周辺の警備行動に入る方向にある。だが、本来、我が国個有の自衛権行使の観点からするなら、条約上や協定上の義務は果
たしつつも、重要公共施設等への必要な警備措置については政府の指示に基づいて従事すべきである(「攻撃を受けやすいのは、米軍施設とその周辺」という固定観念をもつなら、それが相手側の攻撃を許す盲点をもつくりかねないからだ)。
テロ根絶への道−「貧困」への最低限のセーフガードの構築
前項では、残念ながら「軍事制裁」確実との前提に立って次善の策を示すこととなったが、いずれにしろ緊急にとるべき策として欠かせないものではある。そして、ここでは締めくくりとして、テロとの戦いで決定的なものは、その培養素地となっている「貧困」をどう軽減し、克服するかであることを指摘しておきたい。
これだけの犠牲者を出して、誠にまどろっこしい話かもしれないが、発展途上国における「貧困」がテロの温床であると言われて久しいものである。報道されるパレスチナ指導者層の話でも、貧困が蓄積された地域のパレスチナ人たちが過激派の支持者であり、今回の米国の事態を喜んでいるという。自爆テロの志願者たちも、「この楽しみ少なき世界」を嘆きつつ「神に導かれること」に期待をつないで「殉教者」の道を選ぶのである。
ここには、結論が拙速ではあるが日米をはじめとする多国籍企業による容赦のない搾取によって、貧困の淵をさまよう発展途上国経済の現状が大きく反映している。
「社会主義の実験」が破綻した21世紀の今日において、「貧富の差」を前提とした資本主義経済の論理は世界経済につらぬ
かれる法則となっている。
このシステムが長い期間にどうなっていくかは置くとして、少なくとも「貧困の根絶」というのは資本主義を前提とする限り、ありえないのが現実だ。しかし、少なくとも「貧困」に対する最低限のセーフガードは、世界の治安と資本主義的競争を前提にした健全な各国経済の発展にとって重要な段階となっている。それが、今日のテロ事件の続発が示しているといえる。
「根こそぎ富を奪う」ような多国籍企業やその背後に蠢く者たち(ソロス一派等)の野放図を規制し、世界のどの地域においても畑や作業場から切り離され、野天に投げ出される人々をなくすことが、少なくとも「やけっぱち」の自殺テロ志願者やそれを利用する勢力を世界の中から孤立させ、根絶させる遠いようでもっとも近い道なのだ。
我が国は、世界最大のODA大国である。しかしながら、我が国企業と一部官僚は、血税から支出されたこれら「貧困軽減」のための事業財源を食い物にし、イスラム世界を含む発展途上国地域での反発をひろげている。ここにメスを入れ、ODAが「貧困」へのセーフガード構築につながる事業創出に役立つものにしていくことが、我が国政府に切にもとめられている。
誠に残念だが、以上述べた方向で小泉政権が動いていくどころか、筆者が心配する道をとることにのみ、傾斜が強まっているようだ。間違いなく、近く実施される「軍事制裁」に我が国は多大な財政支援を要請され、また政府や与党の「目先しか見えない」輩が「今度こそ血を流す貢献も」と声を高くして、周辺事態法の全面
発動と我が国自衛隊の米軍への支援活動の本格化へと事態は動くであろう。
しかし、立場の左右、イデオロギー如何を問わず、この事態が必ずテロリストによる反撃可能性を強め、我が国内における民間施設や国民への危険を高めることにつながることは、何人といえども認識すべきだ。繰り返すが、そのための国内的なセキュリティー向上のための措置の徹底が、どの道を選ぶにしても不可欠なのだ。
国家主権の防衛とは、必ずしも個有の軍事力の整備とその行使を意味しない。「国を守る」とは、ひろく国民と国家体制の安定を図ることであり、ここに失礼ながら「戦争放棄で軍事力は不保持であるべき」とか「自主憲法制定で国軍再建」などの左右双方の論が見落としてきた要点があると考える。正しい認識に立たない論争は、不毛であるのみならず国が最低限とるべき策をも見落とさせるのである。大きな犠牲を出した今回のテロ事件が、少なくとも地に足のついた建設的論争の契機になることを切望してやまない。
(平成13年 9月15日 記)
阿悠 幸友氏の防衛論考(2):自衛官の「宣誓」と派遣の「大義」
|