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 あとがき

はじめに
1:田中政治と田中の慧眼
2:金脈問題とロッキード事件の真相
3:新田中政治への期待

4:ロッキード事件とマスコミ
4-1:マスコミの専制主義
4-2:調査報道と私刑
4-3:田中元首相とマスコミ

5:ロッキード事件判決と世論
5-1:10・12判決の意義
5-2:真実に背を向ける世論の偽善
5-3:田中元首相の実像と虚像

6:第二次田中時代の展望
6-1:判決以後の政治と国民の期待
6-2:田中政治への期待
あとがき

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 「道の道とすべきは、常の道に非ず」は老子の言辞である。時は生者の思惑に関わりなく流れ来、そして去って行く。

 田中元首相の10・12判決も、この自然律の流転から見れば、一過性の一現象に過ぎない。人は幸福のとき偉大に見えるが、真の偉大さはその人の不運のときにある、ドイツの詩人シラーの言葉である。老子そして詩人シラーの言辞は、現在の田中氏に献じるふさわしい言葉と思える。

 ある意義において、日本の政治、田中氏の政治生活にとっても、10・12判決は新しい時代の幕開けの契機でもある。

 今日の政治は、マスコミ権勢の台頭という新たな局面に立たされ、この問題にいかに対時するかは、今後の政治が民主主義の理念を貫くか、暗黒政治に回帰するかの重要課題に直結している。

 論点を田中氏個人に戻せば、今後の田中氏は、否応なく政治家田中、被告田中の両道を歩かねばならない。政治家田中に関しては、豊富な経験と、天与の才能それと同時にア・プリオリ的な庶民性、創造性などから従来以上の政治的能力を発揮することに疑う余地はないが、被告田中の前途には依然として茨の要件が山積している。

 法廷での闘いは、建前上法学的領域に限定され、結果の可否は弁護団の諸氏がいかにして田中氏の真実を司法官に認知させるかにかかっている。一審の判決を見ても、かかる法理論的な主張が、現代の不可避的宿命であるマスコミの権勢によって、歪曲させられる恐れなきとするにいたらず、法廷での闘いは同時に、マスコミ対策、対マスコミ闘争と不可分の関係にあるといえる。

 法理論の闘いは、主題の選定、法解釈の概念性、判例解釈の精神性等において争点の帰結は分岐される。

 一つの仮定をあげれば、ロッキード事件の判決が十年前だったら田中元首相ら被告は全員無罪の判決を当然理として受けていたであろう。その理由の一つは職務権限の解釈で、従来の法におけわが国の精神的座標軸の故である。他の理由は法権威と情報機関の地位 関係にある。マスコミが今日的権勢を手中にしたのは、近年にすぎない。十年前と今日では、法廷に対するマスコミの影響力は天地の差ほど異なってきている。有罪判決に対して田中氏側の総意は、概してマスコミ批難で固まっている。

だが、今後継続して上級審での法廷闘争がある以上、単にマスコミ批難だけでは事態の解決は期し難い。道とは常の道ではない。百年一日のマスコミ批難は自ら墓穴の道に至る。同時に、人が新しい道に立つ場合の不可欠条件は、真の偉大性は難局に対峙したときに発揮されることの自覚にある。筆者は田中勢力の諸氏に訴えたい。田中勢力は古い殻を打ち破り、新しい田中勢力の新機軸を国民に開示すべきだ、と。

 筆者にとって田中擁護論関係の著作は、本稿で二度目である。一回目は社会学の視点からロッキード事件と田中元首相の問題を取りあげたが、学術的な論法のため一般 的ななじみをもつものではなかった。

 本稿は筆者の在野政治勢力としての立場から、田中元首相とロッキード事件を取りあげ、同時に、専門領域から離れて誰でもが理解できる内容のものにしたつもりだが、舌足らずを反省している。

 今後も機会があれば、田中氏関係の著作を続ける予定であるが、一般 の角度から田中問題を扱った書物は、各書店に山積みされている状態なので、玉 石混淆、真贋混淆を避ける意味で今後の著作は、より学術的なものを選びたいと考えている。それにつけても学術領域での田中氏関係資料はまことに少なく、資料探しに精一杯の状態である。上級審での裁判も近く開始されるが、今後の著作は、純粋学術の座標位 からロッキード事件そのものを扱ってみたいと思っている。


 


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