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4-1:マスコミの専制主義
前章までは、田中元首相と田中政治のあり様を在野政治勢力の立場で解釈し、その結果
として、従来われわれが、田中的なものを誤解と独断のうえに構築してきた構図をあきらかにすると同時に、10・12判決を契機に、われわれにおける田中政治認識が百八十度逆転した経過をダイジェストで述べた。
後章は、われわれの立場、すなわち在野政治勢力の立場から離れて、より一般
的な視点から田中元首相を検証してみようと思う。
このことは、かつてわれわれが犯した「誤解と偏見」にまつわる誤ちの道に一般
国民を導かないための道しるべに役立てる意図が働くからである。ロッキード事件は10.12の判決で終わった訳ではない。
むしろ、ロッキード事件の出発は、判決の日から出発するといっても過言ではない。ロッキード事件を取り巻く環境は、単に被告人が無罪であるか有罪であるかを問う前に、多くの社会問題を提起した。その一つに最近のマスコミがある。権力は大きくみて三権に分類される。一つは立法権で二つ目は司法権、それと行政権である。
民主政治の一般は、以上三つの権力を不可分的に調整したものから成立っている。
政治的意義の権力とは「権力は力なり」に集約され、力の行使方法に政治の善悪がある。「情報化社会」以前の民主政治は、三権に分岐された権力を相互調整することでうまい具合に運営された。
情報の発達は、かかる従来の政治体系に変化を要求し、情報自体が一つの権力を獲得しようと動き出した。すなわちマスコミが第四の権力者になろうとしていることである。
政治にしても、また経済・社会にしても、一つのものが強力な位
置を占めようとする際は、その強力・強大を押える力がなんらかの形で作用するのが従来のパターンだった。ものごとには、すべて表と裏があり、表裏相対性原理がものごとの調整を計る。
しかし、昨今の情報化社会は、情報そのものの暴走に対して、それを抑制する機関機能がない。
かかる現実の「情報化社会」のあり様を、単に情報化時代の過度期として片付ける訳にはいかない。
アメリカの社会学者アーサー・ミラーは「情報は権力なり」とマスコミを定義し、情報機関・情報産業の進むべき方途を示した。
すなわち、マスコミそれ自体が権力としての性格をもっている。したがって一度マスコミが暴走すれば、それは権力の乱用となり、社会に誤認と偏見を撤さ散らして、無用な混乱を人びとに与えるというものだ。さらに、ニューヨーク・ワールド紙の創刊者でピュリツァー賞の発議者であるピュリツァーは、権力のあり方を、一、公共奉仕、二、公共道徳、三、文学の振興、四、教育の発展に集約規定し、この原則に沿わないマスコミは単に社会の”扇動者”にすぎないと決めつけた。
自らの使命に尽力するマスコミは、社会の奉仕者、正義の守護者になり得るが、この原則に反するマスコミは社会の”撹乱者”、”扇動者”だというのである。
権力は力なり、情報は権力なりといわれる通り、たしかにマスコミの権力化は情報機関が力を自分のうちにもつことである。
前述したように、政治に示された権力は、常に両刃の剣である。それが道理に沿って行使されれば社会に多大な貢献をもたらす一方で、非道理にもちいれられれば社会一般
に混乱をきたし国民生活を害し毒するのである。
前述したアーサー・ミラー、ピュリツァーその他多くのマスコミ関係者が、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、マスコミの権力化とそれに関連してマスコミの使命、マスコミの役割など、マスコミ権力抑制の必要を唱えたのは、当時代すでにマスコミのもつ危険性を予見していたからである。
政治とマスコミとの関係について見れば、十九世紀末のアメリカは、将来のマスコミの公害、マスコミによる個人被害の発生を予想し、憲法修正を含むマスコミ対策を実施している。
主な政治的施策は憲法の十ケ条修正項目に含まれ、合衆国憲法修正箇条に成文化されている。いわゆる「権利の章典」と呼ばれるもので、内容の要旨は、マスコミの非権力化を規定し、同時に、個人の権利がマスコミから保護されることを明文化したものである。
情報先進国であるアメリカは、マスコミの権力化という問題に最初に直面
した国である。
このため、「情報の自由は民主主義政治の原点である」とマスコミの性格、立場を保障する反面
で、個人の「自由主義」を擁護するため厳しい規定による規制を行っている。
アメリカに対して日本の情報対策には、未だ天地の開きがある。
アメリカのマスコミ規制が、主に個人のプライバシー権を保護しているのに対して、日本のマスコミ規制は、単に「社会の常識」に準拠することが大である。もともと常識に確たる規定秩序がある訳もなく、マスコミがこれこそ常識だと主張すれば、マスコミの権力は「無法」的に拡大される。
やや専門的になるが、日本のマスコミ規制に関する法文を挙げれば、刑法二三〇条の名誉毅損条項、二三〇条二の事実の証明項目と二三一条の侮辱についての項目以外に「刑法」の分野に法文はない。
しかし以上の法律は、マスコミ規制のため特に設けられたものでなく、その由来は明治憲法によって定められた「一般
的」な名誉に対する罪の領域から出るものではない。
このことは、現在の日本にマスコミを取締る法律が独立して設けられていないことの裏返しで、今日第四の権力として巨大化しつつあるマスコミは、何等の規制も受けず勝手気儘に行動していることになる。
両刃の剣であるマスコミの立場は、権力をもつが故に自らの規制と国民の監視を受けなければならない筈であるが、日本における今日のマスコミは、自省力をもたず、さらに国民の監視を完全に否定している。
特権階級の否定は、マスコミの絶対使命である。しかし現実のマスコミは、自分自身が特権階級になろうとし、既に成り上っているのだ。
ロッキード事件は、現在のマスコミを考えるうえで貴重な問題提起を示した。
この際国民一般は、アメリカの例に倣って「日本のマスコミ」を再検討してみる必要がある。それは、自分自身がマスコミの被害者、犠牲者にならないための安全保樟につながる重要な問題であるからだ。
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