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4-2:調査報道と私刑
マスコミはロッキード事件報道を通じて一つの言葉を造語した。調査報道の名詞である。
もともとマスコミの役割は、社会生活に必要なマスコミが「媒体」となって一般
大衆に伝達することである。マスコミが自分の意思で情報を作り、受け取る側の考えかたまで自由にコントロールしようなどとするやりかたは、本来の役割ではない。
マスコミが正しい道理に従うときは、マスコミュニケーションの担い手として、社会に奉仕する役割に適うが、道理に外れて「自らの意図」を強調するとき、その立場は使命に反逆したものとなる。
世界を破壊に導いたナチスドイツは、宣伝相ゲッベルスを中心に猛烈な情報生産を行って、ドイツ国民を戦争へ駆り出した。
彼ゲッベルスは、もともとマスコミ人でもジャーナリストでもなく生粋の学者、それも哲学者だった。ハイデルベルグ大学で教鞭をとる彼にヒトラーが声をかけた狙いは、彼に情報を生産させるためで、そのために哲学を専攻する彼は「無実から有実の情報を捏造する」役割に最も適していた。
ナチスの特徴は宣伝にあった。その理由は政権機構の中にゲッベルスがいたからに他ならない。野獣に優る慧眼をもったヒトラーは、すでにこの時点でマスコミの重要さを認識していた。ゲッベルスによる哲学的・フロイト的・レーニン的な巧妙かつあくどい宣伝作戦は、ドイツ国内だけでなく西欧全域を恐怖の坩堝に投げ込んだ。話が少し脇道に逸れてしまったが、要は、マスコミの力はゲッベルスに見られるごとく、一歩誤まれば社会に混乱を生じるどころか国家民族さへ破滅に尊びく恐怖をもっているということである。
ロッキード事件に関する全般の報道も、その根底にあるのは、ゲッベルス的な情報の捏造で、その突破口は調査報道である。
ここで調査報道の一例を引用しょう。
ロッキード事件丸紅ルートの第一回公判が開始され、百九十一回目に全審理の結果
が裁判所によって明示された。すなわち判決の言い渡しであり、10・12の判決だった。
しかし、朝日新聞の十一日付朝刊は、裁判所の判決に一日先行して「田中有罪」の記事を載せたのである。
いうまでもなく、被告人を裁くのは裁判所であって、それ以外の者に被告人を裁くことは許されていない。これは法治国家のイロハであって、その後の法律はすべてこの原則から出発する。いやしくも社会正義を言論の拠り所とする新聞社において、この道理を知らぬ
筈はない。だが、朝日新聞は敢えてこの道理に逆らってマスコミの秩序を破った。
そもそも公判続行中の報道については、社会に与える影響、裁判に与える誤解と予断への影響から報道の範囲は「公共の刑審に関する事実と公益を図るための目的」に限定、また、制限されなければならない。
続行中の裁判について、外野席からガヤガヤ騒ぎ回ることは、それ自体裁判所の権威を損なうもので、社会常識から見ても許されるものではない。しかるに朝日新聞は、言論界の常識を破って、裁判所の判決以前に、朝日新聞の「判決」を発表した。
「判決」した朝日新聞の主張に、一般読者は田中有罪の「心証」をもった。そして、朝日新聞の世論調査とする国民の八○パーセントが田中有罪を想定している状況によって事前判決したのだという。心証は裁判官の重要な要件に所属するものであるが、国民、さらに一般
読者は新聞社の心証など一切必要としない。
読者が新聞に求めるのは、事実だけの記事で、新聞社の勝手な心証は有難迷惑である。 また、朝日新聞の唱える国民の八○パーセントが望む「判決」にいたっては、何をかいわんやである。
事件について最大公約数的に知ることのできるのは裁判所である。建前を措いて本音をいえば、実のところ一般
は何も知ってはいない、知っているとすれば少なくともそれは報道されたことだけである。
報道のもつ宿命は、ことの良し悪しを別にして報道自体がフィルターの役目を果
たしてしまうことである。このフィルター的機能は、報道機関の性格を決定づけるもので、一つの事実が多くの報道機関によって報道されると、報道される事実が報道機関の数に比例して多角的になる原因である。
したがって、特定のマスコミが、意図して田中有罪の情報を公判中に流せば、事実を知らされず、ただ、フィルターをかけた情報だけに接している一般
読者は「事前」に有罪説を支持しても当然である。
朝日新聞による八○パーセントの国民が田中有罪を信じている根拠は、いかにも朝日新聞的な理由によっている。
若干専門的な話に触れさせて戴くが、最近新聞協会が行った調査データによれば、国民の新聞に対する信頼度は、無条件に信頼する、一応信頼するを合せて五五パーセントだ、残り四五パーセントは「信頼しない」ではないが、一部判らないを除き新聞を信頼していない。
このデータからして、朝日新聞のいう「八○パーセント」の数字は、どこから導き出したものであろう。
新聞を信頼する五五パーセントから引き出した八○パーセントは、すなわち四四パーセントにしかならない。
一部判らないを除いても、朝日新聞的な言い分にしたがえば、田中有罪説支持者は四四パーセントで国民の半数を割っている。さらに、世論調査に示されるデータにも、多くの疑問が残されている。
統計学による世論調査の対象者は、三千人である。三千人の意見が国民の意見を代表しているというものである。たしかに、統計学にいう根拠にはそれなりの理由があるかも知れないが、要するに、その三千入をいかにして選ぶかである。 方法としては無作為抽出の手段もあるが、この手法にまったくの公正を期すことはできない。
したがって、新聞社が主張する各種のデータは、いずれもこのような不確実な根拠によって示されている。
前出したナチスの宣伝相ゲッベルスは、極めて朝日新聞的な方法を駆使して、情報天国ドイツ・宣伝王国ナチスを構築した。
新聞社が社会的公正の使命を放棄して、自身の意図を世論化する最大の武器は、調査報道であり、これに優る手段はない。
先に新聞的フィルターの宿命について述べたが、調査の宿命的条件についても若干触れてみよう。
調査の技術的宿命は、主客の混同と対象に対する偏見である。
調査を行う者にとって、調査目的そのものに無偏見で立ち向うことはできない。それはあるものが調査の対象となったこと自体「何がある」がまず前提となり、続いてその何かを暴くことが目的化される。
田中は確かに有罪だ、よしそれなら俺が有罪の根拠を握ってやろう、これが調査報道に従事する者の第一偏見である。 同時に、これが新聞社の総意となった場合、この偏見は正義の証しにもなってしまう。ある事実に直面
したとき、無偏見の者には、ごく当り前に映っても、偏見をもつ者はその当り前が巨大に見える。
最近、泰野法相が「マスコミのリンチ」発言をして世間を騒がせた。この例もマスコミの現状を知る者にとっては、ごく当り前の発言であっても、田中擁護派としての泰野視角に凝り固まった者にとっては、国民感情を逆なでする暴言と聞えるだろう。
調査をさらに分析すれば、目的が白の証明を求める場合と、逆に黒の証明を求める場合とでは、調査の方法から点と線を結ぶ調査テクニック、証言者、証拠資料の選びかたまで根本から違ってくる。
通常裁判所の審理は白から出発し、公判の過程で白黒を峻別
するのを原則とするが、調査の過程は逆方向に進み、やむをえない場合に限り白を表に出すにすぎない。
衆知のとうり裁判の原則は、疑わしきは罪せずであるが、調査の原則はこの法則を逆であるとする。したがって、調査報道の言葉が意味するものは、対象をトコトン追いつめ、むりやり何かを引き出すことにある。調査報道が単に社会の一現象に向けられた場合、受け取る側に興味ある情報の提供を可能にするが、これが犯罪報道となった暁には、被害者はいうにおよばず社会一般
、終には裁判にまで影響を波及する。
「調査報道にやり過ぎはない」と口にするのは担当の記者たちだけである。彼らにとって、彼らの行動がいかに人権を蹂躙するものであっても、また社会の公序良俗に反するものであろうとも、彼らは常に喰い足りなさを感じている。
マスコミの強引な取材活動を支える法的根拠は、一九六九年に出された最高裁大法廷の判例である。
最高裁は福岡事件の上告審で、マスコミの取材権を拡大解釈して取材権の法律的合法性を認めた。
上告審そのものはマスコミの敗訴となったが、付帯意見で取材の自由が大幅に承認された判決だった。
しかし、この判決で示された取材権は、現在の"なにがなんでも式"の取材まで認めたものではなく、道理に撤った範囲内に限定している。もちろん当時は調査報道などという取材のケースはなかった。
だが、今日のマスコミは、福岡事件の最高裁判例が恰も今日の調査報道まで合法化しているものと誤認し、ロッキード事件報道に見られるがごとき取材と報道を正当化している。
朝日新聞の「10・11判決」は確かに調査報道の所産がも知れない。だが、「判決の根拠が」前出した心証と国民八○パーセントの支持だけでは、余りにも大新聞の名前が泣くというものである。
冒頭に述べたごとく、新聞に代表されるマスコミがいかに権力化しようとも、マスコミの役割は情報の伝達であって、裁判所の代理機関ではない。そのマスコミが裁判所の決定に先立って判決の断定を行うなどは言語道断であり、社会良俗に反逆する行為である。
ロッキード事件判決に際して、裁判に予断を与えかねない報道の是非は、多くの識者によって論じられた。
その是非の結論は、上級審によって示されるのであろうが、ならば調査報道によって傷つけられた田中元首相らの人権は、どの機関によって回復されるのであろうか。
調査報道の最たる被害者田中元首相は、「六カ年半にわたるマスコミ・ジャーナリズムの状態は、公人としての私にたいする社会的制裁の一つと考え、精神的苦痛にも耐えてきたし、これからもまた耐え忍んでいく覚悟だ。」と判決後の「所懐」で語っている。
正真正銘、田中元首相の有罪は確定した訳ではなく、上級審における無罪の確率は充分高い。田中所懐もいうごとく、六年半におよぶマスコミの田中いじめは壮絶を極めた。とくに朝日新聞の田中報道は、調査報道の手段を駆使して田中いじめを敢行し、社会悪のすべてを田中元首相に転嫁してやまなかった。調査報道の行き着くところは、報道される者への私刑である。二十世紀の現代マスコミが自身の中にもつ魔女的サディズムを駆って特定人物を私刑にかけるあり様は、結果
において自身ががマゾヒズムに堕ちることを意味している。 
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