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4-3:田中元首相とマスコミ
「故なくして、人を謗る者は奈落に堕ち、故あって、人を謗る者は地獄に堕ちる」は古人の教えである。
朝日新聞、毎日新聞その他マスコミによる田中誹謗は、前句を借用して理解すれば、故あって田中を謗る部類にはいる。
朝日主導によるマスコミ界は、過去十年間、金脈問題、ロッキード問題で終始一貫田中元首相を攻撃し続けてきた。
そして、その一里塚が10・12判決だった。「金脈」問題がどのような経過を辿り田中内閣の命脈を断ったか、知る者は多い。
庶民宰相として華々しい船出を飾り、多くの国家的事業を達成した田中内閣は、プロの政治家を自負し政界に君臨する三木、福田両元首相らにとって決して愉快なものでなかった。
良くも悪くも政界は両頭三面、神出鬼没の世界である。
一人の政治家、一つの内閣を葬るなどは、その気になれば易いことである。
権謀術数にジャーナリズムが加担すれば、この人間社会でできないことはない。
人の欠点は、その人の長所のなかに含まれている。経済に強い田中内閣は、同時に、欠点を経済のなかにもっていた。 列島改造政策の善政部門が、逆に田中元首相の個人攻撃に利用されたのである。
大人物の条件は肥大小心である。大きな仕事をなす人物は、わが事において小心でなければならない。思わぬ
失策、まさかと思われる小事が結果的に命取りとなる。
金脈問題は、田中元首相のまさかの小事、思わぬ失策がマスコミに取りあげられて大きな問題に発展したにすぎない。
金脈問題の結着は、文字通り竜頭蛇尾、大山鳴動して鼠一匹、も出ずして終った。
もともと何もないところに煙を立てた事件である以上、鼠一匹も出なかったことは当然である。
だが、金脈問題の根は、金脈事件の一部始終にあるのではなく、行政の最高機関である内閣を、総理総裁の個人攻撃によって葬ったことにある。政争は政策でなければならない。権力闘争に第三者勢力のマスコミを引き込み、マスコミの"調査報道"を利用して対立者を抹殺するやりかたはもはや政治でなく、世俗の戦いである。
権力に利用されるマスコミの恐怖は、前章でもたびたび触れたが、金脈問題にみられる三木・福田、それと彼らに同調する政治勢力および意図をもったマスコミの結託は、この十年間の政治を国民から切り離した原因である。
しかしあくなき彼らは、金脈問題で田中内閣を葬った余勢を駆って、今度は田中元首相を葬るため「ロッキード事件」をデッチあげる悪辣振りを発揮した。
金脈問題で第二田中内閣をお釈迦にした反田中勢力の主役は、三木・福田元首相を中心にした政治勢力で、これに利用され協力したのがマスコミ権力と、これにいやしく便乗したのが野党である。
これに対してロッキード事件は、頭初こそ政治勢力が主役の役割を果
たしたが、初公判が開かれた以後は、マスコミ勢力が主役の座にのぼり、政治勢力は影に回った。
主役の交替は、政治勢力の残忍破倫理狡猜のイメージを国民の眼から隠蔽するためで、両事件を通
して裏側に蠢くのは隠惨な性格をもつ政治勢力である。
両勢力の共通目的が田中打倒で一致していることは、政治勢力の動きとマスコミ勢の動向から明ら
かに読み取れる。
彼らが取りあげる金脈問題も、またロッキード事件も、要は、田中元首相を攻撃するための一材料にすぎず、若し金脈・ロッキード事件がなかったら、彼らは別
な事件をデッチあげたに相違いない。
金脈問題、ロッキード事件を捏造した彼にとって、架空の事件を「創造」することは容易なことであって、政治の世界にはそのような材料は無数に散在している。
政治的謀略を武器にする政治勢力と、調査報道を武器にするマスコミ勢力が手を組めば、いまの社会は、政治、経済を含めて格好な狂言まわしの舞台となる。
国民にとって、田中金脈問題、ロッキード事件から学びとるものは大きい。
国民一人ひとりは、両事件を単に田中元首相個人の問題と見ずに、社会全体の問題として受けとめなければならない。
幸い、両事件とも庶民生活と直接関係のない場所で起こった事件である。
だが、このような事件は、庶民生活の場ていつ起きても不思議ではない。
特定権力者による個人攻撃・マスコミによる個人私刑、等々の事件は一見無関係と思われる庶民生活の場にもたやすく入りこんでくるかも知れないのである。
地域社会、職場そして家庭のなかにさえ、その原因は潜んでいるといっても過言ではない。被疑者にされた人、その被疑者をもつ家庭、それを取り巻く縁者は、ひとたび調査報道の餌食になったら最後、徹頭徹尾何もかも破壊し尽されてしまうことは、日常マスコミ情報に接している者が熟知している通
りである。このような場合、その被疑者が白か黒かは問題外で、田中元首相に見られるごとく、例へ真実が「無罪」であっても、大衆という名の権力と、マスコミ権力は合体して、まず、社会的な私刑を加え、次いでマスコミの致命的な徹底した私刑か加えられる。
被疑者が心血を吐露して真実を叫んでも、家族が生命を賭して無実を叫ぼうが、マスコミの手によって既に有罪の「判決」を下された者の叫喚は、あたら引かれ者の小唄の値打ちしか持ち得ない。
金脈問題や、ロッキード事件が国民に示した恐怖はここにある。
いま田中元首相が、絶対無罪を叫んでも、国民の四四パーセントは、疑いの耳でしか聴かない。しかし、田中元首相を特別
な人と見るのではなく、同邦の一人として受けとめるならば、田中元首相の無罪主張を謙虚に聞いてもしかるべきである。
本章を締めくくるに当って、柏木元日弁連会長の意義ある一文を借用記載する。
「……犯罪事実に関する報道は、巨大化したマスメディアの手を通
じていく千万の人びとに対し、起訴前においてすでに罪を犯した悪人として印象づけ、その社会的地位
も名誉もも奪いかねない。一方被疑者の無実の訴えや弁解は同程度の強力な手段をもって社会に知らせる方法はなく、人違いであったり証拠不充分なために不起訴になった場合においても、有罪者としての烙印は消し難い…」
( 著者「人権とマスコミ」より引用)
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