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年頭提言
理念の喪失が国家の崩壊を招く
行政調査新聞 社主・松本州弘
長年、地方行政問題に取り組みながら常に突き当たる一点がある。
それはことの大小広狭問わず諸問題の原因を遡れば、人間としての理性あるいは理念の不在に対峙せざるを得ないという点である。
これを思想的に分解しようと試みるほど、問題の根幹は政治社会的な側面よりも哲学的思想の域に視座を移行し、哲学的思考では社会学的な実効性を弱体化させるという自己矛盾を生じているようでならない。
たとえば「戦争を止めよう」というスローガンは、少なくとも紀元前の人類社会に既にあった思念のひとつであり、人間の理性が有効であるならば数千年を経てなおも不変の愚挙が現在的にあるはずがないという仮定にまで至ることになる。
そこで、私たちは問題解決と是正の社会的な方法論の過程として、問題の本質を哲学的に言及する以前に、現象として表層化する問題を言うなれば揚足取りの如く批判し状況の転換を試み、またその必要を提言するという活動を選択することになる。
しかし、このことは大雨で決壊した河川の堤防を放置したまま洪水の被害に追われるようなもので、本来は決壊した堤防を回復すること、またはより強固な堤防を築くことのほうが先決であることは万人の知るところである。
では、なぜ万人が知ることの判断基準や価値基準が、現在的な社会問題に対して事実上、無効に近い機能停止に陥るのだろうか。
それは洪水では、人の生命が危機に瀕したり、家屋や財産が流出するという物質的な損害が経験的に実感されるからであろう。
一方で、戦争や内紛、犯罪や行政悪による社会不安といった政治的、社会的諸問題は当事者ではない限り、自ら決壊した堤防の修繕に挙手する人間は、いまだに少数派といって妥当である。
なぜそうなるのかと考えてみれば、行政問題は所詮人間社会の産物であり、同じ問題が一方では被害であっても一方には利益となる構造社会に生じるもので、自分が人間である以上、自ずと定める限界を自意識下に置くからではないかと思うのである。
洪水という天災=自然現象では、対峙する「敵」は人間ではない。原則的に人間は、人ではない敵に対しては各個の社会的立場や主義を超えて結束して、危機を乗り越えようとするが、人間が形成した共同体社会の問題に対しては、こうした原則論を放置する。人間が自然界に位置づける動物の世界に於いて、彼らが洪水に対して、科学的な方法論を考案したり社会組織的な防衛対策を講じたりすることはない。あるとすれば生物としての遺伝的な防衛本能が危機に対して機能するという意味での生物学的な機質によってである。
ところが私たち人間は、複雑な思考と思想と意志を持ち共同体として生きることで他種の生命が解決し得なかった存亡の危機を、その人類史上に於いて幾度も乗り越えてきた。
そのような人類という種が、人間共同体社会内部の一部の人間が形成する社会的枠組みによって現象化する悲劇や不幸や不平等をなぜ解決できないのであろうか。日頃、私たちが取り組む地方行政問題は、実はこうした哲学的な難問をいつも内包しているのである。
しかし、人が病気になれば原因を究明して治療を試み、または要因となる生活の改善に努めるように、政治問題を含めた広義の社会問題のすべては、私たち人類の共同体を一個の人体として思考することで、解決の契機を得られるはずなのである。
わが国がこの新年を迎える前後にも、現在の病理社会を象徴する若者による猟奇的犯罪が連日報じられた。但し、私たちがいま厳しく認識しなければならないことは、これが「病理社会」なのではなく「社会そのもの」なのであるという点である。私たちは、既に病理社会以外の社会を喪失しているも同然の危機的状況の最中に立たされているという時代認識を持たなければならない。
そして私たちは、これらの危機的状況が洪水なのではなく明確な人為的所産によって形成された社会構造が自ら招来した危機であると認めるなかで、人間としての理性と理念の不在、これを放置してきた教育の不在を突きつけられるのである。
本紙は民間有志の言論活動組織に過ぎない。こうした問題についての論考は、既に専門有識者が多くの議論を展開されているだろうが、また新たな年が「馬齢を加える」が如くの、単なる暦の振り戻しにならないようにとの願いと自戒を込めて、あえて浅学な草民の立場から持論を開陳する所存である。
【概 論】
市場原理主義が、この世界の特に近代史に齎したものは過剰な消費社会の礼賛と国際的な格差社会化、その弊害として顕現したオゾン層破壊による地球温暖化等の環境問題である。
これらの改善と問題解決に向けての国際社会の動向は、人類すべての個体の問題意識に収斂されるべき、今後の人類社会の最も重要な課題のひとつである。
ところが、環境問題や宗教対立による戦渦について意識を持ち、議論や活動に参加する国民はまだ少数派といえるだろう。多くの社会生活者は日日の生計に追われ消費社会の敗者にならない為に腐心する暮らしを余儀なくされている。また、一部の富裕層と呼ばれる高額所得者に至っても、余剰金を蓄えた安定した生活を送りながら、深刻化する地球汚染や格差社会、もしくは卑近な自治体行政問題に対してすら自分の住む世界とは別の出来事であるかのように無関心であり、これらの問題を改善することがない。
殊に、先進国のなかでは最もボランティア経験率が少ない日本では、その傾向が顕著である。
なぜなら、戦後の日本がその構造化を完成させた経済至上主義は、引き換えに教育を犠牲にしたからである。
本来、人間が生きる上で守らなければならないルール、道徳観、倫理観、なによりも人生観、世界観という哲学を含めた、相対的な思惟活動の重要性を子供たちに教えるものが教育である。
平明にいえば、たとえひとりで生きているつもりでも、人間とは共同体のあらゆる事象現象と観念に必ず関係性が結ばれているという認識を通じて、他者との協調と共存、共同体に於ける自己の役割、責任と権利と義務という社会性を学ぶことにこそ教育の本懐がある。単に語学や数学を情報、知識として習得するならば、学校という擬似的な共同体社会を構成して子供たちの経験値を訓練する必要はないのである。
現在の日本および社会問題を抱える国々にとって重要な問題は、これら本質的な教育の喪失であろう。
十九世紀以降の教育とは市場原理主義に正当化される消費生活の利益を享受するのに必要な情報と手段を効率的に獲得する為の、教育という名の洗脳であり世界のテキスト化であったといえるだろう。
ここで謂う世界のテキスト化とは、経験やその失敗から得る人間として大事な誇りや恥、人を助ける心といった人間性よりも通貨の獲得を最優先する為に与えられる、一方的且つ一元的な世界の情報化を意味する。
なんらの実体験を経ずしても、通貨をより多く獲得したものが権勢を固持し、その感性と論理を基底とした社会は、勝者と敗者、成功者と敗北者という両極構造を機能上必要とすることになる。
このことは、一部の意図的な強権主義、選民主義に限らず、無自覚且つ無意識に消費優先社会に盲従する圧倒的多数の一般的な国民に真の意味での教育が不在であることから、皮肉にも悪政に苦しむ国民自身がその保守構造の支柱となる共依存的な悪循環を生じているものである。
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原則的に市場原理主義を発明し制度化したものは、欧米社会から始まった議会制民主主義である。選挙によって国民の代弁者を選出し、国政に対して民の権利を反映させるという民主主義は、発足当初に於いては画期的な制度であったが、やがて歴史のなかで構造化した。
そもそも議会制民主主義は議会が各国民の権利を「代行」するという時点で、実効上は間接的民主主義であり、このときに主権者は個々の国民ではなく選出された代議士になるという矛盾を予め生じている。これらの問題については、ジャン=ジャック・ルソーなどの思想家によって既に述べられているはずである。
結果、現在の国際社会に明らかな通り、選出された民の代弁者はその大義が自己権益の確保に極めて有効な道具であるという大きな誤謬に陥り、議会制民主主義は形骸化した。
また、国民も構造化された社会とこれを補完する恣意的な教育によって悪政や圧政を批判する視座とこれを変革する力を失ったのである。
そして最も不幸なことに、民の代弁者が構築した民意排斥の社会に対する閉塞感と諦念または失望という人間の生それ自体の無力感が広く国民を覆った。これらのストレスは本来向けられるべき権力構造社会に対してではなく、個人的な攻撃欲求に転化され、社会的弱者を標的にして蕩尽するという深刻な病理社会を招来したのである。広義にはこれらの「人災」たる共同体内部、共同体間の社会問題ないし個人問題のほぼすべての遠景に、真の意味での教育を剥奪された構造化社会の存在がある点に注意しなければならない。また、この悲劇はいまや遠景としてではなく、まさしく私たちが立つ大地それ自体となっていることを厳しく認識するべきなのである。
これらの現象は日本に限らず国際社会に普遍的にみられる現在の人類社会が抱える大きな問題である。
私たちは、如何にして現在の人間社会の崩壊の危機を脱出できるのか。この課題の回答を、いまこそ人類の叡智のすべてを以て導き出さなければならない大きな転換期を私たちは眼前にしているのである。
形骸化した民意不在の構造化社会を変革するために最も重要なものは、武力でも経済力でもない。
それは人間が地球上に生きる他種の生物と異なる唯一にして最大の「理念」をすべての人間が取り戻すことである。
「理念」とは元来、古代ギリシャの哲学者・プラトンが提唱したイデア(Idee)という世界観が近代史に於いて日本語訳された概念を意味する言葉である。
イデアは哲学史、思想史に於いて多様な解釈と派生語を生んだものであるが、本質的には人間が持つ価値判断の中心原理であり、如何なる物質的な世界にも変容しない人間の本質的「理性」を指している。
本論では、「理性」をイデアの哲学的主張の「性質」だと認識した上で、この「性質」を自意識として思想するべきであるとの視点から「理念」という言葉を用いて論旨を述べるものである。
「理念」は自然界にあって人間しか持たない思惟能力によって発明された、人類最大の叡智であろう。市場原理主義とは強者が生き残る世界を肯定する論理であり、その意味では弱肉強食の他種生命体と同質となる。
つまり、人間にとって「理念」の復権とは自然界に於ける人間の在り方を市場原理主義社会が形成される以前の、人間の精神性を回復するということである。なぜならば、人類史にとって議会制民主主義の論理で生きた歴史よりも、個物の共同体として生きた歴史のほうが遥かに永いからである。近世の人類史観で発展または進歩と認識される人間の社会態様の変遷は、その大部分が産業革命を筆頭とする共同体の機能的な側面に於いて補完されている。
これは現代的な共同体社会の解体を意図するイデオロギーではなく、文明の発達に反比例して人類が思考停止させた、人類の存在理由に対峙するという思想的観点への回帰という課題を示すものである。
社会が構造化する上では自ずとヒエラルキー(階級制度)が生まれ、またこうした共同体の形成が、人類に他種の生命体を凌駕する文明を創造させたといえる。
しかし、そのヒエラルキーは自然界に於ける人間性からみれば、個体の能力差が自然に形成する、共存の為の理論且つ機能であることが原点である。現代史に於けるヒエラルキーは、まず社会的な枠組みとしてのヒエラルキーが存在し、その内部に介在さえすれば本来、ヒエラルキーの上部に位置する能力や資質を欠く人間であっても利益を享受できるという、構造を目的とした構造化による社会構成となっている。
教育者としての理念や精神、指導力を持たなくても、教員試験に合格する情報力としての知識さえあれば学校の教師は表層的に誕生する。これが経験値なきヒエラルキー社会の矛盾である。
こうした世界では、構造社会の上層部に位置するということが人間としての優性の証左となり、人間社会または人類の世界に人間として生きる存在理由を喪失しているに等しい、消費するだけの人間を量産する悲劇を生んでいる。
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この視座で現在の国際社会を俯瞰すれば、一般的に社会的弱者ないし文化的後進国と総称される共同体生活者は、この存在が消失すれば構造化された社会は機能を停止するという意味からも、人間社会に於ける理論的且つ精神的な真の主権者ということができる。
現在、各国で議論される少子化問題も、構造社会の論理からは、特権的意識を有する構造社会の管理者、為政者が自らの利益の享受を失う危機に対して惹起した構造社会的な問題であるといえる。
つまり、人間の本質的な共同体は、現代史が構成したヒエラルキーを必要としない自然界的な認識のなかで自己実現されるのである。原始共同体的な村落社会を参考すれば、ヒエラルキーを有しながら弱者を弱者として支えていく社会が、かつての人類の始まりであったことが理解できる。
体系化された言語を持たない太古の人類が、無意識のうちに社会構成へと昇華させていた人間独自の「理念」は、文明発達の弊害である世界のテキスト化のなかで、その精神の存在を忘れられてきたのである。
言語体系がない世界に於いて共同体社会が営まれていた歴史的な事実が私たちに示す教訓は、種としての人類が予め有していたと思われる思惟活動能力とその過程で生み出された神話の創造、また神話の伝承を通じて人間としての生を次代にも保存しようとする人間社会のマトリックス(基盤)が、決して情報化による成果ではなく、脱存在論的な精神性によってこそ形成されたものであるという「理念」の重要性であろう。
神話=物語を作る能力は地球上のあらゆる生命体のなかで、人間だけが持つ特異な機質であり、これらの物語を生み出す原理は「理念」の内にしかあり得ない。なぜなら、物語とは出来事を列記するだけでは創造されないからである。人間の経験値にある明確な意図が付与されて初めて神話=物語が完成されるのである。
現在の人類社会が喪失したものは「理念」であり、「理念」を顕在化させる知恵であった神話=物語なのである。
親は子供を殺さない、生徒は教師を殺さない、強者は弱者を救済する、富める者は貧しい者に分け与える、悪いことをすれば罰せられる、人道というものがありこれを踏み外せば人間ではなくなる。こうした、かつての人間社会の神話が理念の喪失に伴って崩壊した。その結果、現在的な社会では神話=物語を恐れない「理念」なき人間が大衆化し、やがて人類社会のスタンダードとして多くの国家に同様の問題を惹起している。
人間が過剰な情報化と消費主義の世界を見つめ直し、本来の人間的な共同体へと再構築する為にも、国民各人、人類の各個体が「理念」に基づく他者との関係性を思想し自己実現させることが急務であり、またその方法論としての教育を、社会的な枠組みを超越した視座から発想することが求められると私たちは考える。
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こうした考察からは、現在的な議会制民主主義を根本的に見直すべきであるという議論が生まれる。勿論、これは対極としての全体主義や独裁支配による社会構成を求めるものではない。
私たちは既に自らが構成した共同体社会の枠組みをすべて解体し原始的共同体社会に戻ることが不可能である(可能だとすれば所謂、人類滅亡期を迎えるときであろう)。
しかし、イデアの世界観を軸に世界を見るときに、私たちは先人たちが築いた産業的文明の恩恵に預かりながら、同時に文明を手にした人類の思惟能力と理性と理念、精神性を回復することが可能なはずである。
社会通念上、権力構造と抽象的に認識されるものは、人間の具体的な意図が構造化されたものであり、この社会に生きる人間各個のすべてに変革の機会と方法が存在する人的な現象なのである。
私たちは、人類史上の計算尺から見ればわずかとも言える三百数十年前まで正しい天文学すら持たず、天動説に異を唱えたガリレオが迫害された社会の延長に生きている。
「ただひとりでなにができるのか?」この考え方自体が、社会の構造化によって利己を享受する一部の人間たちが「流行」させた概念に過ぎない誤謬ではないだろうか。
この観点からいえば、インターネットとは産業革命に次ぐ人類史上の大きな発明であったと私たちは認識している。但し、この情報管理伝達の概念と方法論を発展させた為政者の本意とは反対の意味からである。
出版や放送、または為政者の意志の刷り込みとしての教育制度が抱える構造の歪みとその被害当事者=被支配者の立場にある個人が、個人として事実を報じ主張を試みるという具体的な方法論を獲得することを、インターネットの開発を支えた国家的軍産企業や為政者は想像していただろうか。
皮肉にも世界のテキスト化が、高度な情報化社会の技術を大衆に付与し、その結果、世界のテキスト化の矛盾と誤謬を暴露する時代となっている。
私たちは日本人である。
私自身は戦前の中国に一時期住んだ日本人であるが、この四十年間は世界各国、殊にアジアを歩きながら多くの友人と恩師を通じて多様な民俗文化と理念に触れたことで、日本的構造社会から自然と遊離した視点で日本を見ることもできたと自負するところも多少ある。
その視点から見れば、現在の日本は欧米型の市場原理主義や、その正当化を促進した議会制民主主義への盲従から、いまだに解放されないままである。この点では国家の枠組みとしては共産圏に分類される中国国民は遥かに独自的で強固な自我を形成しているといえるだろう。そこにはまた別の問題も起こるのだが、実存としては中国よりも日本のほうが社会主義や共産主義的な国民支配が完成されている。
「侍(SAMURAI)」という言葉が、ある種の精神性と理念を象徴する国際語として定着した現在、その感性から最も距離を置くものが、いまの日本社会の基本的構成ではないだろうか。
民族的な起源をみれば日本は古来よりアジアと共にあり、またアジア圏の歴史に於いても優れた表現性に富んだ言語体系と精神文化を醸造していたのである。
これを侵食していった原因のひとつが敗戦とその後の米英主導によるイデオロギーの移植であったことは自明であるものの、私たちの社会が歪みを増幅した直接の原因は、私たち自身の内部、即ち国民各人の思考停止にあるのではないか。
卑近な生活環境の不公正を顕著な例に、法制度の改正を含めた制度改革といった国家的な課題についても、まず教育によって日本の現在的社会の問題点を直視し誤謬を理解して、この改善に向かう意志を得ずして未来は望めない。
既に齢七十を超えた私のような老骨でも、希望を見ながら消えたいものだと想うのである。まして、これから国際社会のなかで生きる若者たちが、このまま消費主義社会の隷属として生きることは、人間としてあまりにも怠慢であると言わなければならない。
斯様な言説を述べても、具体的な行動を想像できない人間が多い現実もあるだろう。しかし、簡単な方法で社会改革への参加を果たせるのである。
ひとつには議会制民主主義に則して選出された代弁者、行政が働く法的または道義的な不正行為には徹底した社会的制裁を望む声を止めないこと。また、具体的な行動へとこれを移行することである。ときに反社会的なテロリズムが急進的に構造社会の破壊を試みる現象が起きるのは、国民自身に理念が欠落していることが大きな理由であろう。
新聞社、放送局を含めて日本のマスコミに真のジャーナリストは皆無と言っても過言ではないほど、為政者に対する国民の態度は緩やかである。俗的に言えば、そもそも国民に送り出された上で疑惑に問われた政治家を「先生」と呼ぶことだけも、構造的な既得権益を補完する助力となっている事実に国民が気づくべきである。
またひとつにはマスコミを代表とする価値観の支配にも常に注意を払い、この間違いに対しても言動を止めないことである。たとえば、記憶に新しい相次ぐ警察やNHKの「不祥事」、閣僚の「不透明な会計処理」、または所謂バブル崩壊後に蕩尽された「公的資金」なる造語は、それぞれの本質から焦点を外す為の、構造社会の支配者が意図する誤誘導である。
私たち日本人とこの社会ならびに国際社会を形成する現在の人類が存亡を賭けて取り戻すべきものは、人間としての理性と理念である。
五百万種といわれる地球の生命体のなかで、それが唯一人間にだけ与えられたものだからである。
いずれ機会を臨みながら、本概論を補足する各論にも取り込んでみたいと考えつつ、遅まきながら新たな年の始まりに想う所を縷々述べた次第である。■
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