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森喜朗の怪
さる3月末、1週間の予定でノルウェーのハラルド・世国王夫妻が来日、26日には天皇皇后両陛下主催の宮中晩餐会が行われた。ここには森喜朗首相(当時)も出席したが、これまでの慣例通
り、翌27日にはノルウェー国王からの答礼行事(コンサート鑑賞と立食レセプション)が元赤坂の迎賓館で行われた。
ところがこのノルウェー国王主催の答礼行事に、招待を受けていた森喜朗が欠席したのだ。
森喜朗はこの日午後8時から公邸でハリ治療を受けていたと言い、腰痛のためコンサートの途中で席を立ったらそのほうが失礼だから欠席したと答えている。しかし自民党若手議員と赤坂の料理屋で食事をしたことも明らかにされ、国王の招待を無視したことは新聞マスコミの非難の的となった。
小泉新政権が誕生して、森首相退陣劇のことなど忘れてしまったかもしれない。ちょっと説明しておこう。じつはこの3月末の時点では、国民はもちろん自民党執行部ですら「森退陣」を規定路線と考えているなか、森はなお「一人になっても戦う」と首相続投に意欲を見せていた。ところがこのノルウェー国王答礼行事欠席以降、森の威勢は一気に失してしまい、4月4日の「正式退陣表明」へと繋がっていく。
調べてみるとさらに謎が深まる。
ノルウェー国王の迎賓館での答礼行事が行われた27日夕刻、智恵子夫人は正装して首相公邸に出掛けている。つまり夫人はその刻まで、森喜朗と一緒に答礼行事に出席する予定だったのだ。それはもちろん、森喜朗自身も出席する予定だったことを意味する。また国王答礼行事に欠席したことを批判された森は、前述のように腰痛等を言い訳にしていたが、親しい記者に対して、「言いたくても言えない事情があった…」と漏らしている事実がある。
ノルウェー国王答礼行事当日に何者かが「仕掛け」を行い、森喜朗は止むなく行事に欠席、マスコミの批判のなか一週間後に「正式退陣表明」を行う羽目になった。――これが真相である。
では、誰がどんな仕掛けをしたのか。本当のことはわからない。しかし推測することは可能だ。この時点で、森の辞任表明を心待ちにしていたのは恐らく野中広務だっただろう。
ご存じの通り自民党と連立を組む政権与党、公明党・保守党は当時、「自民党総裁=総理=野中広務」で一致していた。野中は本来、政権背後で暗躍し権益を得る人物だが、今回は自ら出馬する意向があった。その背景は公明党・創価学会の圧力である。とすると、当然ながらこの力学から何者かが森に仕掛けを行ったと考えられる。だが、じつは仕掛けた何者かも、さらなる仕掛けに踊らされていたと考えられる。
ノルウェー国王答礼行事に森が欠席したのが3月27日。森が辞任を正式に表明したのが4月4日。その中の4月2日に宮内庁長官・鎌倉節(さだめ)が突如として退官している。ここに重要なヒントがある。
鎌倉節とは昭和29年(1953年)東大法科卒。警察庁から内閣調査室長、警視総監などを経て平成6年に宮内庁次長になった人物。後藤田正晴、野中広務とも昵懇の間柄だ。国内の裏情報、天皇家周辺の裏事情にも詳しい鬼才が唐突に退官した理由は、いったい何なのだろうか。
野中を封じた文書
野中は本来、政権背後で暗躍し権益を得る人物だが、今回の総裁選では自ら出馬する意向があった。公明党・創価学会の圧力の故だ。野中は自民党最大派閥・橋本派の実力者ではあるが、同派の青木幹雄とはソリが合わない。また橋本派の領袖は橋本龍太郎である。野中が自民党総裁選に出馬するためにはこの二人の了解が必要だ。そこで野中は、まず橋本の意向を質したのだが、野中の予想に反し橋龍は自らが出馬すると決断した。
橋龍は橋本派会長ではあるが、カネを含めて派閥構成メンバーの面 倒など見る人物ではなく、また中国北京政府に国家情報を流すなど、昔風に言えば売国奴的人物。しかも現在に至るまでのわが国大不況の根源を作ったと考えられているうえ、先の参議院選挙での自民大敗の責任を取って総理を引退した男だ。まさか橋龍が総裁選出馬を決めるなど、野中でなくとも想像できなかったろう。
出るべき野中が出ず、立つはずのない橋龍が出馬した。その背景は4月2日の米『タイム』誌の記事にあったと考えられる。
5月5日号の『週刊新潮』がこのタイム誌の記事を見事に纏め紹介している。ちょっと引用してみよう。
「米誌が挑戦した『野中広務』のルーツ」
「〔首領――低い家柄から日本最高のポストの有力候補へと、野中広務は長い道のりを歩んできた〕 こんなタイトルのレポートを掲載したのは、米『タイム』誌(4月2日号)。『この記事は、野中氏の生い立ちに主眼を置いたものです。永田町では広く知られた話でも、実際に書かれたことはほとんどない話ですからね。その意味で、話題になっていますよ』とは、ある政府関係者。 野中氏は終戦後、旧国鉄に就職。その後、町議に立候補し、府議を経て如何にして、自民党の実力者になったかを描いているのだが、例えば、〔名の知れた貧民地区から身を起こし、日本で最も有力な政治家にまで上り詰めるのは驚
くべきことである〕
〔町会議員を目指した初めての選挙運動の時から、野中は“burakumin”であることを否定しなかった。同時に宣伝もしなかった。その代わりに彼は、国会議員になりたての頃、数回の演説で、自分の生い立ちを巧みに晒した〕 と紹介し、こうした背景が政治家になった動機や政治手法にも多大な影響を与えたと分析するのである。『記事を書こうと思ったのは、今年3月頃。日本人なら誰もが野中さんの存在を知っているのに、バックグラウンドについては知らない人が多い。そこで敢えて、書くことにしたんです』と語るのは、T・ラリマー東京支局長。『この国で部落問題がタブーであることは承知していますが、日本のメディアがこの問題について全く触れないのは理解できない。言葉で表現しない限り、イメージも変わらない。差別
とは公にすることで初めてなくなるものです』……
(以下略)」
(週刊新潮 平成13年5月5日号)
4月4日に森喜朗が辞任を正式表明し、総裁選が行われることが決定した直後、麻生太郎はこの記事を手に勇躍国会に現れた。「米国が野中を見限った! 野中の動きは封じられたも同然だ!」――このとき麻生は、自分の勝利を確信した。最終的には小泉の298票の10分の1とも言える31票しか獲得できなかったのだが。
麻生が自分の勝利と考えたのは大間違いだったが、野中が『タイム』誌の記事で壊れてしまったことは事実だった。実際、昨年の「加藤の乱」で見せた野中の手腕は今回の総裁選では微塵も見ることができなかった。
野中は総裁選出馬を断念したうえ、橋龍支援に絶大な力を発揮することもなかった。たしかに表面 的には従来通りの「締めつけ」を行ってはいたが、党員党友一人一人をシラミ潰しするような行動にも出なかった。そればかりか野中は、小泉新総裁誕生の日に、「橋本龍太郎会長の敗北の責任を取り、事務総長と党行政改革推進本部長を辞任する」と発表したうえで、「今度、党の役職などお暇をいただいたら、南方の遺骨収集に参加したい」と述べている。
いったいこれは何を意味しているのか。
野中広務が同和出身であることは、秘密でも何でもない。また、野中という人物は、こうした差別 意識が出現すれば直ちに猛反撃を行ってきたことでも知られている。マイナスをプラスに転じて、自分に対する非難攻撃を支援材料に転化してしまうだけの実力を持った男である。
何か、もっと別な何かが深奥で蠢いているのではないだろうか。
それは森喜朗がノルウェー国王の答礼行事を欠席させた力とも密接な関係がある。この深奥の力について、本紙は全力を挙げて調査中である。わかり次第、追って発表したいと考えている。
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