『川合善明川越市長2期8年の軌道』 第二弾 | 行政調査新聞

『川合善明川越市長2期8年の軌道』 第二弾

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『川合善明川越市長2期8年の軌道』(二)

平成21年(2009年)  川合善明市長 ……「誕生の背景」

舟橋市政には本当の街づくりの政策がないとする批判の声は、当時市役所の内外に広まっていた。
市役所では冷や飯を食わされた不満職員の代表格が、後に副市長になった風間清司氏。
民間サイドの反舟橋の筆頭が㈲東洋建興の藤崎榮一氏。氏は舟橋市長とは中央大学で同門の筈なのに、舟橋市長から遠ざけられ強い反感を抱きつつ、中央ロータリークラブで不遇をかこっていた。市議会議員の中では、一期目の小野澤康弘氏が舟橋市長の与党会派・啓政会で居心地の悪い思いをしていた。こうした状況下にあって舟橋市長が野に下り、舟橋市政を継ぐ形で副市長の細田照文氏が市長選に立候補したのである。その対立候補として出馬したのが「川合善明氏」であった。

川合善明氏出馬 真の理由は「市長にならないと親父と同じ墓に入れない」

川合善明氏は、名門埼玉県立川越高等学校第21回卒。早稲田大学政治経済学部を経て東京教育大学文学部卒。弁護士。父親の喜一氏が長く市長をやっていたこともあり、倅の善明氏を市長に推す声が顕在化する。こうした状況から後援会の人脈が見えてくる。会長が中央ロータリークラブの長谷川健一氏。副会長が藤崎氏と笹田裕氏。笹田氏は岸町の柔道整復師で、何と笹田夫妻の仲人役は舟橋市長夫妻である。笹田氏と川合氏は川越高校の卒業年次の同級生である。そして市議の小野澤康弘氏。役所で不遇に沈む風間氏を引き上げたのが、後に川合市長の特別秘書官となる植松久生氏であった。植松氏も川高出身で、川合善明氏と組は違うが同学年である。くすぶりの風間氏を川合氏に引き合わせたのは植松氏であった。いわば植松氏は風間氏にとっての恩人である。
川合氏を川高出身の市職員が囲むという形となった。そのうちに側近が驚いたことは、川合善明氏には政治家の素質が全くなく、権力志向のみであったという。市長を目指した理由を問うと「市長にならないと親父と同じ墓に入れない」との政治性なき返事には苦笑するしかなかったという。

政策のない川合善明市長候補のマニフェストの作成は、市職員の風間清司氏だった

風間氏は、川越市役所で不遇をかこつ中で、当初ブームであった自治体学会に参画。自治体学会を通じて民主党系の政策に精通する。風間氏は、川合氏の市長選に向けたマニフェストなどの政策面を担当したのである。であるから川合善明氏の政策は民主党寄りの政策となった。とにかく川合氏は、政治面に関して全く無知で右も左もわからず、おとなしいものであったと言う。マニフェスト作成に際し「本当に自分がしたいことは…何?」と聞いても、得意の無言を決め込むだけであったと言う。
それが今はどうだ。権力の椅子の居心地がよくなると、二年目辺りからの振る舞いはまるで権力の亡者と化して自らの力量を過信。何でも自分でできると思い上がり、舞い上がっていったのだった。この川合善明氏を市長にするため、心からなる支援をして下さった川高三年C組卒の学友の皆さん。また川高卒の多くの方々に協力を戴いたのだ。そのことを振り返れば、川合市長の側近である川高組は、お世話になった皆さんに合わせる顔がないと、胸の張り裂ける思いをしたという。それらの責任を痛感し、川合市長の言動を諫言すればするほど、川合市長は諫言した者を憎しみの対象とした。植松氏は、その犠牲者第一号となった。この話はあとの章で……

市長選開始「民主党が川合推薦」を表明する

当時、市議会派プロジェクト川越21は、民主党に近いということもあって、川合氏を推薦することになった。推薦を決めたプロジェクト川越21のメンバー小林薫議員は厳寒の中、早朝から川越市駅頭で川合氏の応援に立ち、また川合氏の選挙カーでの応援も行った。民主党の片野広隆議員は川合氏の選挙カーの運転手までして手伝った。
平成21年1月25日執行の市長選挙で川合善明氏は当選となったが、川合氏本人・川合夫人からの労いの言葉や挨拶の電話一本なかったという。惜敗した細田氏は、支援者に丁重な挨拶回りがあったことを耳にし、関係者は礼儀を知る人との心の違いを知り憮然たる思いを拭い切れなかった。

平成23年3月議会において「特別秘書官」の役職を条例化

当時、民主党と川合市長との間には今のような亀裂はなかったが、特別秘書は必要がないとのことで民主党は反対に回った。平成23年3月川合市長は、わざわざ新しい条例を作り植松氏を特別秘書官の役職で就任させたにも拘わらず一年後、植松氏にメールで「辞めてほしい」と退職を促した。同時に川高卒の友人達や、与党の市議らにも植松氏を辞めさせる旨の電話を入れている。

議会で条例化した特別秘書官を一年後に「メールで退職させた」川合市長

川合市長誕生に際して、副市長を誰にするかは差し迫った重要な課題であった。
白羽の矢は、あらゆる政務に通じた大野英夫氏に向いた。大野氏は是是非非を明らかにし、公私を峻別する真っ直ぐな人物である。大野氏は川高の出身で日大卒。しかし川合氏の選挙支援には参画していないことから、川合派の一部に反対意見もあったが政治を知らない川合氏を補佐するには、大野氏をおいて他なしを植松氏は主張した。大野英夫氏が副市長に就任し、ここに川合執行部体制が確立したのであった。これより二年、川合体制は平穏・大過なく政務を推進しているかに見えたが水面下においては、川合市長の権力思考が頭をもたげ市議らをレベルの低い存在と決め付け、自分の方が優秀だとの思い上がりが議会での対応に露呈し、議会対策がうまく回らなくなってきたのだ。
こうした経緯の中に、与党議員による川合市長の権力を利して自己益を計る者らが、大野副市長の政務の推進に水を差し大野副市長に対する讒言(ざんげん)が日を追って激しくなり、川合市長はそれをまともに受け大野副市長を遠ざけ始め、同時に植松氏も特別秘書官として川合市長の自我慢心が高まるにつれ、議会と川合市長との橋渡しがうまく回らず川合市長に対する植松氏の諫言も厳しくなり、植松氏の存在がうとましく川合市長の胸中は植松氏に対する憎しみに変わっていく。
やがて植松特別秘書官は、川合市長誕生までの努力、川合市長を中心とした政務の推進に身を削るような苦慮の日々も空しく、川合市長より一本のメールによって川越市庁舎より追い払われたのであった。
かつて川合氏を推した小林議員は、川合市長の思いやりのない…人情のかけらもない…自己中心主義に強い反発と怒りをもって、平成24年第二回定例会(6月12日)一般質問で、植松特別秘書官解任について川合市長に鋭い質疑を行ったのである。川合市長のシドロモドロの答弁は議事録に残っている。大野副市長は自ら去り…植松氏は川合市長から首を飛ばされ…風間氏は居残り副市長にまで昇進したものの、例の如く川合市長に遠ざけられ、任期を残しその職を追われたのである。