「恨日」に凝り固まった朴槿恵 | 行政調査新聞

「恨日」に凝り固まった朴槿恵

就任以来、一貫して「反日」姿勢をとり続ける韓国の大統領・朴槿恵(パク・クンヘ。発音上はパク・クネ)。その反日ぶりは凄まじいの一語に尽きる。訪米した折りには議会演説で「反日」を叫び、中国に行って習近平国家主席と会談しても「反日」。11月にヨーロッパを歴訪した折りにも、どの国に行っても「反日」の皆勤賞。英、仏あたりでは「なぜ無関係のわれわれに日本批判を主張するのか」とあきれ顔をされている。

さすがに当の韓国でも、エスカレートする朴槿恵の反日言動には批判が出始めている。「冷静で理性的な国益計算が必要だ」(中央日報)、「国家指導者は、ときには国民感情を乗り越えて未来を見なければならない」(朝鮮日報)などなどである。

日本の週刊誌マスコミも、暴走する朴槿恵にはお手上げといった感じだ。事情通の中には「朴槿恵の言動は『反日』ではなく『恨(ハン)日』なのだ」と解説する者もいる。恨日とは、いったい何か。朴槿恵の人生を振り返ると、「恨日」に凝り固まるウラ事情が見えてくる。

怨念の塊・朴槿恵

今年(2013年)7月、全斗煥(チョン・ドファン)元大統領の自宅や、長男が経営する会社に、突如として地検特捜チーム90人が押し入った。全斗煥とは1980年代に韓国大統領だった人物で、今年82歳。不正蓄財で有罪となり、追徴金2205億ウォン(約200億円)の判決を受けたが、まだ総額の4分の1くらいしか支払っていなかったものだ。

韓国の追徴金には時効がある。全斗煥の追徴金支払は今年10月に時効を迎えるはずだったが、7月になぜか時効が2020年まで延びる法案が可決され、その4日後に地検特捜チームが全斗煥の財産を徹底的に洗い出しはじめたのだ。

全斗煥はすでに過去に受賞した勲章を剥奪され、今度は家族すべての財産が没収されそうだ。これというのも、朴槿恵大統領の「全斗煥に対する恨み」が原因だとささやかれている。

全斗煥に対する恨みとは何か。

話は1979年10月の朴正煕暗殺事件にさかのぼる。

朴槿恵の父である朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が暗殺された。暗殺犯は朴正煕が信頼し、可愛がっていたKCIA部長の金載圭という男だった。

大統領が暗殺されたため、その権限は国務総理の崔圭夏(チェ・ギュハ)に渡ったが、全斗煥らのクーデターで軍部に権限を掌握され辞任。朴正煕暗殺から10カ月後には全斗煥が大統領に就任した。

全斗煥は朴正煕の秘蔵っ子として出世し、第一旅団長から保安司令官になった軍人。彼は大統領になり青瓦台(大統領官邸)に入るや、娘の朴槿恵が希望した朴正煕の追悼式も行わず、それどころか朴槿恵と弟、妹を青瓦台から追い出してしまった。その後、弟は覚醒剤中毒の疑いをかけられるような荒んだ生活を送り(現在は実業家として活躍)、妹は朴槿恵と対立するようになる。朴槿恵のイバラの道は、全斗煥によってもたらされた。

可愛がった父を裏切り、自分たちを追い出した全斗煥を赦すことはできない――30年過ぎようが100年経ようが、全斗煥に対する彼女の「恨み」が消えることはない。そして同様に、日本に対する「恨み」も。

朴正煕と妻の陸英修

満洲国軍中尉で終戦を迎えた朴正煕は、その後韓国国防警備隊を経て陸軍に入り、少佐から少将へと昇級。その間の1950年に二度目の妻、陸英修と再婚している。陸英修は女子高卒の才媛で、結婚後も勉強を続け、政治、経済、社会問題などに目を向けたすばらしい女性だったようだ。

1961年、軍事クーデターが起こり、朴正煕は翌年大統領代行、1963年に大統領に就任。1965年(昭和40年)には佐藤栄作首相と『日韓基本条約』の調印を行い、日本の資金によって「漢江の奇跡」とよばれる韓国経済の大復興をなし遂げさせた。

ところがこのころから朴正煕と陸英修の関係が悪化する。原因は朴正煕のご乱行だという。

朴正煕は妻と子供が待つ自宅には寄りつこうともせず、周囲に美女を侍らせて、乱痴気騒ぎをくり広げていたという。

「17歳から21歳までの女子大生で、とびきりの美女ばかりを何人も集め、破廉恥極まりない状態だった」――これは韓国情報に詳しい人物の話である。この情報がどれほど正確かは不明だが、あたらずとも遠からずといったところだろう。

高校から西江大学に進学したころ、朴槿恵は母・陸英修と2人で、父のご乱行が治まるように祈りを捧げる日々が続いていた。ところが朴正煕のご乱行は治まるどころか、ますますエスカレートしていったのだ。

大学で中国語を完璧にマスターした朴槿恵は、卒業後、フランスのグルノーブル大学に留学し、フランス語を学んでいた。彼女が渡仏して1年余、1974年8月に文世光事件が起き、母・陸英修は殺されてしまった。

急きょ帰国した朴槿恵は、その後母に代わってファーストレディとして朴正煕大統領を支えることになった。しかし、母が許さなかった父・朴正煕のご乱行は、目を覆うばかりのものだった。

文世光事件とその背景

文世光事件とは1974年の光復節(8月15日に日本からの独立を記念する祝日)に起きた事件。在日朝鮮人の文世光(当時22歳)が、韓国大統領・朴正煕を暗殺しようと撃った銃弾が、夫人の陸英修の命を奪った事件である。

事件のあらましを記そう。

1951年12月26日生まれの犯人・文世光(日本名・南条世光)は、本人の自供によると、大阪朝鮮総聯の支部長から朴大統領暗殺の指令を受けたという。
文世光は1974年7月に、大阪市の派出所から拳銃を盗み出す。そして日本人の偽造パスポートを使って8月6日に韓国に潜入。ソウルのホテルに宿泊した。

事件当日、文世光は正装し、日本の政府高官のようなスタイルで記念式典会場の国立劇場に向かう。高級車に乗っていたこと、身なりが立派で堂々としていたことから、警備員にも見とがめられず、招待状も持たないのに、式典会場に入ってしまったのだ。
式典が始まり、朴正煕大統領が演壇に立ってスピーチを開始する。
文世光は拳銃を抜き、大統領を撃とうとしたが、その前に暴発して最初の一発目で自分の足を撃ち抜いてしまう。それでもかまわず彼は通路を走り、20メートル先の大統領に向かって第2弾目を発射した。
長い間軍人として活躍していた朴正煕は、最初の銃声で身構え、2発目が撃たれたときには演壇の下に潜って難を逃れた。
文世光は3弾目を撃ったが、これは不発だった。続いて4弾目を撃つ。この銃弾が演壇の後方、椅子席に座っていた陸英修夫人の脊髄を撃ち抜き、夫人は死亡した。
文世光はさらに5弾目を撃ったが、それはあらぬ方向に飛び、演壇後方の韓国国旗に命中した。
文世光が銃を撃ち始めてすぐ、大統領警護員たちが銃で応戦。その流れ弾が当たって女子高生が1人死亡し、けが人も何人か出ている。
犯人、文世光はその場で取り押さえられ、裁判で死刑が宣告され、同年12月に処刑された。

仕組まれた劇場型犯罪ではないのか

事件直後、さまざまな情報や噂が流された。その第一は、事件のウラに日本が関与しているのではないかという説だ。第二は、じつは自分が狙われたと見せて、朴正煕自身が妻を殺したのではないかというものだ。
たしかに奇妙なところが、いくつかあった。

大阪の交番から白昼堂々、銃が盗まれるなど、考えにくい。
そのうえ、銃を持った男が韓国に入国することは、当時の状況から考えて、非常にむずかしい。常識的に考えて、あり得ない話だ。犯人・文世光は日本のパスポートを持っていた。日本人が偽造パスポート作成に加担したはずである。

さらに、たとえ正装していたとしても、招待状も持たない人間が祝賀会場に入れるものなのだろうか。日本政府高官に与えた招待状が使われたに違いない。それが隠されているのだという噂まで、まことしやかに流されていた。

朴正煕は当時、暗殺されても仕方ないほど敵が多く、厳戒態勢の警備だった。そのようなところに、拳銃を持った若い男が、持ち物検査もされずにフリーパスで入ることなどできるものだろうか。
そして彼は、客席の前方、演壇まで至近距離のところに着席できたのである。
文世光は拳銃の撃ち方を知らない。YouTubeにアップロードされた当時の現場フィルムを参照しながら説明すると、

1弾目はバカな話に聞こえるが、自分の足を撃っている。(0:12)
2弾目は、まったく的外れだった。(0:18)
3弾目は不発。(0:18)
4弾目は、陸英修を一発で仕留める正確無比な銃撃。(0:19)
5弾目は、まったく的外れ。(0:19)
(なお、0:35で聞こえる銃声は、ある警護員の誤射。この弾丸で合唱団員として式典に参加していた城東女実高2学年のジャン・ボンファさんが死亡。後続する悲鳴は、このとき彼女の周囲にいた女子高生たちがあげたもの)
ほんとうに文世光の撃った銃弾が陸英修に当たったのか。陸英修を撃ったのは、別な人間だったのではないのか。上記フィルムの音声に耳を澄ますと、1弾目の銃声の6秒後、2弾目、4弾目、5弾目の銃声が連続して、ほぼ同じ間隔で「タン・タン・タン」と響いている。3弾目が不発だったにしては、妙に整然としたリズムだ。また1名の警護員も緊張のあまりか客席に向かって銃を撃ち、その弾で女子高生が死んでいる。冷え切った夫婦仲を終わりにするために、朴正煕が殺させたのではないのか。日本の闇社会と密接な関係を持つ朴正煕が企んだものなのではないのか――そんな疑惑がささやかれていた。

陸英修の死亡に関し、検死などされていない。陸英修の命を奪った弾丸は、文世光が大阪の交番から盗んだ銃から放たれた弾なのかどうか、いまとなっては調べることはできない。

金正日と会談した朴槿恵

2002年5月、朴槿恵は突如として北朝鮮・平壌を訪問した。

この訪問にあたり、北朝鮮の金正日総書記は朴槿恵を迎えるために、自分の専用機を北京に飛ばしている。(金正日は飛行機嫌いで自分が乗ることはほとんどなかった。)

朴槿恵が訪朝した際、予定外のことだったが、金正日総書記が予告なしに朴槿恵の宿舎であった百花園迎賓館を訪れ、2人だけで密談をしているのだ。

このとき金正日は陸英修の死にふれ、「在日朝鮮総聯が関与していたことに対し深く謝罪する」と語ったと伝えられている。しかし、金正日がほんとうにそう語ったかどうかは、誰にもわからない。知っているのは朴槿恵と、亡くなってしまった金正日だけである。

事情通が語る。

「朴槿恵はもともと父である朴正煕が嫌いで、母・陸英修が大好きだった。日本びいきの父はイヤで、韓国文化を愛した母が好きだった。母に地獄の苦しみを与えた父を憎み、父が好きだった日本を嫌っていた。しかし、2002年の訪朝以降、朴槿恵の反日ぶりは異常なまでに進化している。金正日総書記は『陸英修殺害には日本が一枚噛んでいる』というような話をしたのではないだろうか」

その可能性は、非常に高いのだ。金正日としては、陸英修の死に関して在日朝鮮総聯だけの責任にしたくない。さらにいえば、日韓の政治対立は北朝鮮に利する。

真相は不明だ。しかし、金正日総書記の言葉を鵜呑みし、「愛する母を殺した真犯人は日本だ」と朴槿恵が確信したとしたら――。彼女は復讐に燃える鬼と化す。もともと素質的に恨みに燃えやすいタイプなのだから。

そのような「恨日」思想家を大統領に選んでしまった韓国は、まさに不幸といえる。いや、韓国だけではない。日本にとっても東アジア全域にとっても、そして世界人類にとってもたいへんな不幸といえるだろう。■