伊藤博文暗殺の闇 | 行政調査新聞

伊藤博文暗殺の闇

20世紀に入って間もない明治42年(1909年)秋10月、初代内閣総理大臣で枢密院議長だった大勲位公爵、伊藤博文が暗殺された。この歴史的事件の背後にはさまざまな噂話が流布されている。真相は未だ闇の中にあるが、本紙社主・松本州弘が得た人間関係の中から闇の奥を覗き、日韓のわだかまりを僅かでも解きほぐしてみたい。

暗殺事件の現場

明治42年(1909年)10月14日、伊藤博文は大磯の自宅を出発し、途中2泊して16日の朝に門司から鉄嶺丸に乗って大連に到着した。伊藤の外遊の名目は満洲視察であったが、真の目的は哈爾濱(ハルビン)でロシアのココフツェフ蔵相らと会談することにあった。会談内容は日本の韓国併合と満洲鉄道問題である。

日清戦争(明治27年)で勝利した日本は、清国の隷属下にあった朝鮮を自主独立国と認めさせ、半島から清勢力を一掃した。その後、日・露・清という列強が互いに牽制しあっているなか、朝鮮では王室内の対立が激化。実権を握った親ロシア派の高宗は明治30年(1897年)に朝鮮国(李氏朝鮮)を大韓帝国と改め、初代皇帝となる。高宗はロシアを頼りに絶対君主制を押し進め、改革開放派の弾圧を行ったが、明治37年に始まった日露戦争で日本が勝利すると後ろ盾を失ってしまう。明治38年の日露講和条約(ポーツマス条約)でロシアは朝鮮半島、満洲から全面撤退することになり、大韓帝国は日本の保護国となった。このときの初代総監が伊藤博文である。

大韓帝国を保護国とした日本では、韓国を併合(合邦)すべきとする意見と、それに反対の説が対立した。国内は真っ二つに割れ、どちらが優勢という判断すらつきにくい状況だった。大陸進出、拡大膨張路線を求める軍部と、韓国併合の経済的負担を危惧する財界との対立のように語られることが多いが、そうした単純な意見対立ではなかった。

当時の歴史観の根底に「日韓同祖論」が存在し、韓国民を皇民とし、アジアに輝く大日本帝国を建設するという夢が一方にあった。

韓国併合はブリタニカでは「annexation」と表現されている。この言葉は植民地化「colonization」とは異なり、「同等合併」を意味している。これはイングランドがスコットランドを合邦(1707年)した時と同じ表現で、まったく対等の合併という意識があった。

韓国総監であった伊藤博文は、日本による大韓帝国併合には反対だった。伊藤が残したメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これは「韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまで」という意味で、この言葉からも伊藤が日韓併合には否定的だったことは明らかである。

しかし時の内閣総理大臣・桂太郎首相、小村寿太郎外相は併合に意欲的で、明治42年(1909年)4月に韓国総監・伊藤博文と3者会談を行い、伊藤を説得する。このとき伊藤は2人の熱意に負け、併合を是認して韓国総監を辞任、4度目となる枢密院議長に就任している。

こうした状況下で同年10月に伊藤博文は門司から大陸に渡ったのだった。

10月18日に大連に着いた伊藤は、欧米諸国や清国が合同で主催する歓迎会に出席する。当時の伊藤の肩書は枢密院議長だったが、諸外国は伊藤こそが日本を動かす最大の巨人と認識していたのだ。

10月20日には大連から旅順に移動。日露戦争の激戦地二〇三高地を視察し、ロシア軍兵士の墓に詣でた後、特別列車に乗り込んで、遼陽、奉天(現瀋陽)、撫順を経て25日の夕方に長春に到着する。長春でもまた大歓迎会が催され、伊藤は夜の11時に哈爾濱行きの特別列車に乗り込んだ。

伊藤を乗せた特別列車は予定通りに翌10月26日午前9時に哈爾濱駅に到着した。

哈爾濱駅にはロシアの外相、蔵相、陸軍相を初めとして、各国外交団が出迎えに並んでおり、たいへんな賑わいだった。伊藤は駅に到着するや出迎えたロシアのココフツェフ蔵相と30分間の会談を行う。その後、駅構内でロシア軍儀仗兵を閲兵し、居並ぶ各国外交団と挨拶を交わして、片隅に陣取る在留邦人団の方向に向かって歩を進める。

そのときだった。

ロシア軍後方から近づいた斬髪洋装の青年が伊藤に向かって拳銃を数発発射したのだ。4メートルの至近距離から銃弾を浴びた伊藤はその場に倒れ、直ちに停車中の貴賓車に運び込まれ救急処置を施されたが、間もなく死亡が確認された。

青年は伊藤だけでなく、両隣を歩いていた2人も銃撃したが、初弾発射と同時に猛然と飛びかかったロシア警察官数名が折り重なるようになって青年を取り押さえた。

「コリア・ウラー(ロシア語で万歳の意)」

取り押さえられた青年、安重根はこのとき3度ほどこう叫んだという。

暗殺犯は安重根ではない

哈爾濱駅構内で4メートルの至近距離から伊藤博文を銃撃し殺害した犯人、安重根はその現場でロシア官憲によって取り押さえられた。ところが事件直後から今日まで、「伊藤博文殺害犯は安重根ではない」とする説が広く語られている。

その説もいろいろあり、互いに絡み合っている。また小説のネタとしてフィクションとノンフィクションが入り混じり、証拠が存在しているかのように語られることもあり、真相を複雑にしている。

真犯人は安重根ではないとする説は多数あるが、分類するとおよそ以下のようになる。

① ロシア帝国とくにロシア秘密警察が首謀者
② ロスチャイルド黒幕説
③ 日本の右翼団体、なかでも杉山茂丸
④ 義兵団などの大韓帝国排日組織

「ロスチャイルド黒幕説」は主にインターネット(『阿修羅』など)で流されている。決して不真面目なものではなく真剣に扱っているものが多いが、物証はなく推理に推論を重ねたもので、いわゆる「ユダヤ陰謀論」的な怪しさだけしか理解できない。

「日本の右翼団体関与説」は説得力があり、多くの賛同者を得ているように思える。『暗殺・伊藤博文』(上垣外憲一著/ちくま新書)や『伊藤博文暗殺事件 闇に葬られた真犯人』(大野芳著/新潮社)といった研究者たちの観察眼には敬意を表したくなるし、納得もできる。しかしこちらも物証に乏しく、また杉山茂丸の本質を理解していないのではないかとの疑念がある。ちなみに杉山茂丸とは明治期の日本を陰から動かした巨人で、福岡「玄洋社」の真のオーナー。明治天皇と密接な関係にあった奇妙な怪人物だが、本格的な研究書などは存在しない。

「ロシア帝国関与説」は、一般的に最も本命視されているようだ。昨年刊行された小説『銭の戦争』(波多野聖著/角川春樹事務所)でもロシア秘密警察が伊藤博文を暗殺したように描かれている。この「ロシア関与説」の最大の根拠となっているのは『室田義文翁譚』(田谷広吉・山野辺義智編/常陽明治記念会)の記述である。貴族院議員の室田はずっと伊藤に同行し、哈爾濱の狙撃現場で自身も銃弾を浴びたという。その室田が「狙撃犯は安重根ではない」と証言しているのだから、説得力はある。

さらに外務省外交史料館の『伊藤公爵満洲視察一件』と題された綴り3点中にも「凶行首謀者及ヒ凶行ノ任ニ當タル疑アル者」が安重根以外に25名存在したと書かれており、単独犯行説は事実掩蔽のための捏造ではないかというのだ。元九州大学大学院客員教授の若狭和朋は『室田義文翁譚』と外交史料館文書の双方から「真犯人はロシア特務機関」と断定する。

伊藤暗殺は「義兵団など朝鮮族排日運動」による組織がらみの事件で、安重根は狙撃実行犯役のコマとして使われただけに過ぎないという説も根強い。これによると伊藤博文を殺害した真犯人はロシア在住の韓国人、楊成春だという。楊成春は安重根とも親しく、事件当日、狙撃実行犯だった楊成春は、安が取り押さえられている隙に現場を脱出。しかし直後に何者かによって射殺されたという。

伊藤博文暗殺事件に関し、こうした異論、異説が飛び交い、未だに結論が出されていないのが現状なのだ。

事件の真相に迫る

物証もなく、状況証拠だけで推理を積み重ねた「日本の右翼真犯人説」は、ここでは深く触れない。推理を重ねたものだから、その推理を論破することが非常に面倒で、なにより意味がないと思われる。ここでは最大の問題として、『室田義文翁譚』を検証してみたい。しかしその前に、前段階として誤解を解いておく必要がある。

安重根は真犯人ではないとする各説に共通してみられるものだが、伊藤博文の哈爾濱行、ロシア蔵相との会談は「極秘情報だった」という話がある。この極秘情報を安重根はどうやって入手したのか。――ロシアが教えたに違いない。そういった観点から、ロシア説がより強固になっていく。

しかしこの前提条件は、まったくの捏造話である。

明治42年10月当時、伊藤が「満洲視察」の名目で哈爾濱に出向き、そこでロシア蔵相等と会談を行うことは、日本、大韓帝国、ロシアの新聞各紙が多くは一面トップ記事で伝えており、極秘でも何でもなかった。また特別列車が哈爾濱駅に到着の予定時刻が午前9時だったことも、韓国やロシアの新聞には大きく掲載されていた。だからこそ在留邦人の多くが伊藤歓迎のために哈爾濱駅に集まっていたのだ。

貴族院議員、室田義文は伊藤博文に同行し、哈爾濱の狙撃現場で自身も5発の銃弾を浴びたという。その後、伊藤は直ちに現場横に停車中の特別列車に担ぎ込まれたが、医師は手の施しようがなく、30分後に息を引き取った。室田は伊藤の遺体処理に立ちあい、右肩から入って心臓手前で止まった1弾と、右腕を貫通し臍下に至った1弾を自分の目で確認した。その銃弾は安重根が所持していたブローニング拳銃弾ではなく、フランス式騎兵銃だった。

2発の銃弾はいずれも上から撃ち込まれており、水平に撃たれたものではない。安重根とは別に哈爾濱駅2階食堂付近に狙撃犯が潜んでおり、それが真犯人だというのだ。

『室田義文翁譚』のこの記述を読む限り、安重根以外の狙撃犯がいた可能性は非常に高いように思える。しかしこれは真実なのだろうか。元水戸藩士、メキシコ公使だった室田義文を疑うつもりは毛頭ないが、いくつか納得できないところがある。

銃弾に倒れ列車に担ぎ込まれた伊藤博文は絶命するまでの30分、意識はしっかりしていたようだ。自身で「3発当たった。(撃ったのは)誰だ」と言い、自分の正面に飛びだしてきた斬髪洋装の青年からの銃弾を浴びたと伊藤博文自身が証言している。

さらに伊藤の臨終を看取った医師は、3弾すべてが致命傷になったと判断。銃弾の1発目は右上膊を穿通して第7肋間に水平に射入、2発目は右肋関節を通して第9肋間に、3発目は上腹部中央右より射入し左腹部の中に、3発とも盲管銃槍で、弾は体内に留まったままだったと証言している。

室田の話ではフランス式騎兵銃の弾が使用されたとされるが、伊藤公の尊厳を損なうとの理由で司法解剖は行われていない。司法解剖が行われなかったのは事実隠蔽のためとの説もあるが、仮にそうだとしても、盲管銃槍で体内に残ったままの銃弾を室田だけが現認したという話は辻褄が合わない。さらに、伊藤博文のかなり後方を、3、4人と共に歩いていた室田だけが5発の銃弾を浴びたという話も疑問である。

室田の談話が掲載された『室田義文翁譚』は事件から29年後の昭和3年、室田没後に翁から話を聞いた者たちの思い出話として刊行された書で、本人の知らぬところで勝手に修飾増幅された可能性が高い。

安重根は7発を撃ち尽くし、伊藤に4発撃ったと自供している。

安は伊藤の顔を知らず、先頭を歩く者が伊藤だと思い4発連射。間違っている可能性もあると思い、後方から歩く2人に3発を速射した直後にロシア官憲により取り押さえられたと自供している。裁判及び外務省記録では、伊藤が3発被弾、横を歩いていた秘書官・森泰二郎、哈爾濱総領事・川上俊彦、そして後方十数メートルを歩いていた満鉄理事・田中清次郎が手足胸等に貫通弾を受けたとある。田中の数メートル後方を歩いていた満鉄総裁の中村是公も2発被弾したとの説もあるが、公式記録には中村被弾は記載されていない。

他にも安重根狙撃を否定する情報はあるが、現場に居合わせたロシア蔵相、外相、陸相、アムール総督も詳細な証言を残し、また在留邦人の供述もすべて安重根による単独狙撃としており、疑念は存在しない。 

安重根が狙撃実行犯ではあるが、安を操った黒幕が存在したか、もし存在した場合、その黒幕は何者かという問題が残る。日露戦争を含む対露謀略の首謀者として露国特務筋が伊藤を処刑したとする若狭和朋の説もあるが、当時ロシア側が満鉄権益に関して伊藤を最大の交渉相手としていた状況下での暗殺は考えにくい。

外務省外交史料館に現存する『伊藤公爵満洲視察一件』に「凶行首謀者及ヒ凶行ノ任ニ當タル疑アル者」が安重根以外に25名存在したと書かれており、これを以て安重根以外に真犯人グループが存在したとの主張もある。

これは間違いではない。「伊藤博文暗殺は安重根の単独犯行だった」と思っている方がいるかもしれないが、この事件に関連して殺人予備罪、殺人幇助罪で安以外に3人が懲役刑を受けているのだ。

明治42年10月26日の時点で、清国領土であった哈爾濱はロシアの管理下に置かれていた。伊藤博文殺害という大事件が発生するや、日本の対ロ感情を危惧したロシアは、僅かでも関与の可能性がある者をリストアップし、その数は20名を越え最大25名に達するとしていた。そして16名が訊問対象となり、最終的には安重根他8名が容疑者として旅順に護送された。旅順では日本警察による厳しい取り調べが続き、最終的には安重根以外の5人が容疑対象となった。禹徳淳(32歳・煙草商)、曹道先(36歳・洗濯業)、劉東夏(17歳・無職)、鄭大鎬(34歳・税官吏)、金成玉(48歳・薬商)である。このうち裁判で有罪となり懲役刑に服したのは禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名だった。罪状は殺人予備及び殺人幇助だった。

安重根を看取った男

真犯人は安重根ではないとする謀略説を調べていくと、その根底に妙な差別意識があることに気づく。当時世界の巨人と考えられていた伊藤博文を、韓国人あたりが殺害することなどあり得ないという思いだ。天下の伊藤博文公を愚かな韓国人が殺すなど、あってはならない。絶対に巨大な勢力が動いたはずだという確証のない優越意識がそこにあるように思える。

真の実行犯・安重根とはそもそもどんな人物だったのか。安重根自身は伊藤博文殺害をどう自供しているのか。それを知る必要がある。

安重根の祖父は鎮海郡守を勤めた両班(ヤンパン=貴族階級)だった。

安は老いた母と妻、2人の幼子を残して明治38年の日韓保護条約締結後に対日ゲリラ組織の義兵団に入り、2年後には参謀中将司令官として豆満江周辺で日本軍と数度の銃撃戦を繰り返していた。安重根の射撃の腕前は相当なものだったと伝えられる。伊藤博文に対して、 4メートルの至近距離から弾丸を外すような腕前ではない。

しかし当時の国際情勢は、安重根を初めとする抗日ゲリラがどう頑張っても、思うようには動かない。ロシアを後ろ盾としていた義兵団に対する支援協力は細り、安はより過激な地下活動展開を求めて明治42年正月に同志12名で「断指同盟」を結成、安はその盟主となっていた。

明治42年10月26日の事件当日、伊藤博文公が哈爾濱駅で狙撃され、午前10時に薨去せられた。その緊急連絡を受けた旅順の日本軍関東都督府陸軍は、当然ながら厳戒体制に入った。当時、憲兵上等兵として関東都督府陸軍にいた千葉十七は、愕然となると同時に憎悪の念がこみ上げ吐き気をもよおすほどだった。

翌10月27日、夜も明けやらぬ早朝、憲兵大尉・日栄賢治以下12名に哈爾濱行きの命令が下った。千葉上等兵もその中に含まれていた。千葉は任務内容など聞かされぬまま列車に乗り込んだのだが、このときから彼の運命は思わぬ方向に動き出した。哈爾濱から狙撃実行犯・安重根及び共謀容疑者8名を護送した後、旅順に於ける裁判から死刑執行までの5ケ月間、千葉は看守として唯一人安重根を見守り続け、死後も合掌を続ける一生を送ったのである。

自作農千葉新吉の三男千葉十七(とうしち)が宮城県の猿飛来で産声をあげたのは明治18年1月15日、陰暦明治17年11月30日だった。十七の名は陰暦から採られたもので、十七が尋常小学校に入学したのは明治24年。教育令改正から既に12年が過ぎ、4年間の義務教育は無料だったが、僻地では教師も学校も不足し、尋常小学校といえども寺子屋同然。高等科は有料となり、隣町までの2里を4年間徒歩通学。高等科1年で日清戦争時の国威高揚を体験した三男坊・十七の夢は軍に入隊し出世を続け、特務曹長(准尉)まで上り詰めることだった。徴兵令規定の満20歳を待たず17歳で甲種合格を果たした十七は、両親の勧めに従い20歳で入隊するや憲兵を志願。4年後の明治42年には憲兵上等兵として旅順の関東都督府陸軍勤務を命じられる。そしてこの地で伊藤博文暗殺犯の安重根とめぐりあったのだった。

安の主張は訊問裁判を通して微塵も変わらなかったが、最後の一瞬に看守である千葉十七に対して、自身に仁の心が欠けていたと頭を下げ、「為國献身軍人本分(國の為身を献げるは軍人の本分)」と認(したた)めた書を手渡す。以来千葉は死ぬまで安重根を祀り合掌を続ける日々を送る。

当初は安重根に対して憎悪を募らせていた千葉十七であったが、安の起居行動全般を見るに異様な清廉さを感じざるを得ない。会話を交わす機会はほとんど無かったが、訊問や調書を通して千葉は安の素性を理解する。維新後、薩長政権により辛酸を嘗めさせられた故郷・宮城県の猿飛来に通じるものが韓国にある。正義は新政権にある。それは決して間違ってはいない。しかし疲弊困窮するのは民のみ。日本の保護下に置かれた大韓帝国は、まさにその状態にある。語らずとも千葉の思いが安に伝わったのだろうか、その後二人は気脈を通じさせる。

その深奥は互いを「男」として理解したこととも思われる。千葉は安重根の中に男を認め、安もまた千葉に「男」を見ていた。男として、軍人として、武士としての心根を感じていたと言っていいだろう。

獄中で安が執筆した『東洋平和論』はアジアの和平を説いたものであり、今日も正論として受け止めることが出来る。男として、それを理解することができる。

事大主義と戦後教育で反日感情を露にする半島の民に、同じ水準で敵愾心を燃やせば、安重根の『東洋平和論』は遠ざかるだけなのだ。

安の遺墨は昭和54年に韓国に渡されたが、千葉十七の思いを引き継ぐ作業はわずかながら今日なお続いている。この思いを続けることが大アジアの和平につながる。■