今こそ真実を追求せよ!情報機関が探らない「北朝鮮の英雄」金策の正体!! | 行政調査新聞

今こそ真実を追求せよ!情報機関が探らない「北朝鮮の英雄」金策の正体!!

美しい古都サンクトペテルスブルグに秘められた過去

「北のヴェネツィア」とも称されるロシア連邦の古都サンクトペテルスブルグ(Санкт-Петербург)をご存じだろうか。運河を湛えた歴史のある町で、一部は世界遺産にも指定されている(1990年認定)。そのなかには、有名なエルミタージュ美術館や冬宮殿、エカテリーナ宮殿、そしてアレクサンドル・ネフスキー修道院など、北欧の人々には馴染みのある建物が並んでいる。ロシアを代表するプーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキーといった文学者たちが好んで素材にし、舞台として扱った町でもある。

この町はロマノフ王朝5代目のピョートル大帝(1671~1725年)の命によって建設されたもので、その名は「聖ペテロの町」という意味。ピョートルのフィンランド語読みはペテロで、隣国の有名な高僧ペテロと自分の名を記念する意味で名付けられた町である。

ところがこの町は1924年から1990年までの66年間は違う名を付けていた。レニングラードである。中年世代の人々にとっては、レニングラードという名のほうが記憶されているはずだ。

レーニン(ウラジミール・レーニン 1870~1924年)とは人類史上初めて社会主義革命を成功させた人物である。

レーニンは貴族の父とドイツ系ユダヤ人の母との間に生まれた秀才で、難関とされる国家検定試験を最高の成績で一発クリア。だが後にマルクス主義に傾倒し社会主義運動家となり、逮捕投獄、弾圧、国外追放という運命を辿る。1917年、ロシアのロマノフ王朝を打倒する2月革命が起きたところでレーニンは帰国。この間に日本の明石元二郎がレーニンを初めとする社会主義運動家たちに潤沢な資金を送り続けたことも知られている。

レーニンはその後、赤軍を率いてサンクトペテルスブルグを掌握。欧州列強による干渉戦、シベリア出兵、内戦など激戦にことごとく勝利し、ついに1922年、ソビエト社会主義共和国連邦誕生に導いた。

レーニンは1924年1月に他界したが、彼の偉業を讃えてサンクトペテルスブルグは「レニングラード(レーニンの町)」と改名したのである。

旧ソ連邦にはレニングラード同様、社会主義革命の偉人名を冠した町がもう一つ存在した。現在ヴォルゴグラード(ヴォルガ川の町)と呼ばれる都市スターリングラードである。

スターリン(ヨシフ・スターリン 1879~1953年)とはペンネームであり、本名はヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・シュガシヴィリという。スターリン(Сталин)とはロシア語で「アイアンマン=鋼鉄の人」という意味だ。

スターリンはグルジアの貧しい靴屋の家に生まれた。幼い頃には隣人のユダヤ人から小遣いをもらって本を買い漁り、学生時代には早くも反政府・マルクス主義活動家として活躍を始める。資金調達術には優れていたとされるが、それは現金強奪という荒っぽい手法で稼いだものだった。そのため逮捕、シベリア追放などを食らうが、1917年にレーニンが帰国したところで赤軍に加入。しかし実のところ、対ポーランド戦でスターリンが指揮した部隊は惨敗するなど、戦歴には見るべきものがない。

それでも1922年には共産党中央委員会書記長に就任。レーニンはこの時代からスターリンの悪魔的素質を見抜いて彼の批判を開始し、罷免を要求している。だが1924年1月にレーニンが死去するや、スターリンは「一国社会主義」を主張。政治的、思想的に反対する者たちを陰険な手法で逮捕、追放、暗殺していった。スターリンによる大粛清で死んだ者は2000万人に及ぶとされる(1997年のロシア政府の公式発表では1260万人となっている)。

ロシア南部にあったスターリングラードという町は、古くから要衝として栄えた町だった。16世紀にはタタールの攻撃に備えて要塞が作られ、「女帝の町」という意味の「ツァリーツィン」という名が付けられた。「この名は帝国時代を彷彿させる悪名」ということで1925年にスターリングラード(スターリンの町)と改名されたのだが、社会主義革命の英雄レーニンに対抗して、何とか自分の名を残そうとしたスターリンの意地と思惑が感じられる。

スターリンの死後、フルシチョフにより「スターリン批判」が展開され、1961年にスターリングラードは現在の「ヴォルゴグラード」という名に改名している。
レニングラードとスターリングラード。旧ソ連邦に存在した2つの町。レーニンもスターリンも、ともに社会主義国ソ連邦の誕生から創成期の偉人であり巨人だった。その二人の名を冠した二つの町――。
この二人を分析することこそ、ソ連邦という国家を知ることに繋がった。ソ連邦にとってこの二人は特別な意味を持ち、その特別な意味があるからこそ町の冠名となり、そして消されていった名でもあった。

北朝鮮建国の英雄 金日成と金策

ソ連と同じ社会主義国家で英雄の名を冠する施設を持つ国がある。北朝鮮である。冠された名は「金日成総合大学」と「金策工科総合大学」。しかも金策のほうは市の名前にもなっている。

金日成についてはいまさら改めて語るまでもないと思うが、北朝鮮建国の歴史を振り返る意味でここに記しておく。

大東亜戦争の末期、昭和20年(1945年)8月8日、ソ連は「日ソ中立条約の破棄」を宣告、翌8月9日、越境して旧満洲、北朝鮮に攻め込んだ。朝鮮半島北部にソ連の傀儡国家である社会主義国家を建国することはスターリンの意思であり、その意思に従って建国に関わったのが朝鮮共産党北部朝鮮分局だった。この朝鮮共産党北部朝鮮分局から発展した組織は「北朝鮮臨時人民委員会」と名乗り、その委員長が金日成だった。

金日成は昭和20年(1945年)9月19日にソ連から船で北朝鮮の元山に入り、平壌に辿り着いた。民族の英雄・金日成をひと目見ようと集まった群集たちは、ソ連の軍人に護られて現れた33歳の若者を見て「偽者だ!」と叫んだという。

朝鮮半島に実在し、抗日戦線の英雄と崇められていた金日成将軍という人物がいた。この将軍が活躍したのは1920年代のことで、そのときすでに将軍は老人だった。集まった群衆たちは、この老将軍が現れるとは思っていなかっただろう。だが、この将軍とは別に、やはり抗日パルチザンの英雄・金日成という人物もいた。その男は抗日パルチザン組織「東北抗日聯軍第六師長」という肩書きを持ち、半島に展開する日本軍に夜襲をかけて有名になった人物。このため日本軍は第六師長・金日成に懸賞金を懸けたほどだった。だが、ソ連兵に護られて群集の前に姿を見せたのは、どう考えても第六師長・金日成とは別人に見えたのだ。

ソ連の後ろ盾を得て北朝鮮のトップに君臨した青年の本名は金成柱だとされている。その金成柱が金一星、金日成と名を変えたというのが一般的に流布されている説だ。当時、抗日運動家たちが名前を変えることは当然でもあった。金成柱が金日成と改名したことは事実なのかもしれないが、彼が抗日戦線の英雄だったことは、恐らく作り話だろう。

それはともかく、スターリンという巨大な盾に護られていたものの、金日成は抗日パルチザン――北朝鮮では少数派の「満洲派」の人間だった。多数派はスターリン直下の「ソ連派」と呼ばれる勢力で、その多くはソ連国籍の朝鮮人だった。そうしたなか1950年に朝鮮戦争が勃発。中国から林彪率いる第八野戦軍の大部隊が戦闘の前面に立つ。朝鮮戦争後の労働力不足、経済危機、そして中国とソ連との対立という状況の下、金日成は窮地に追い込まれる。

その後の金日成の政治戦略手法には目を見張るものがあった。まず満洲派とソ連派が結託して、その他の共産主義勢力を壊滅に追いやる。その後にソ連派と対抗するために北朝鮮独自路線を樹立し、それを強力に推し進めて行ったのだ。このとき金日成最大のブレーンとなったのが金策(キムチェク)という人物だった。

金策は1902年(明治35年)に北朝鮮の咸鏡北道・城津市で生まれた。1936~37年(昭和11~12年)頃には満洲の抗日連合第3軍のゲリラ軍の中核にいたとも記録されている。朝鮮戦争、その後の北朝鮮国内での苛烈な抗争の間、金日成を支え続け、金日成独裁体制を築いた最大の功労者である。そうした争闘のなか、1951年(昭和26年、異説もある)に金策は怪死してしまったのだ。

ソ連派、満洲派、その他にも南朝鮮労働党派、延安派等々、派閥軍閥が跋扈する混乱の北朝鮮で、金策が採ったのは金日成=北朝鮮独自路線だった。

朝鮮民族は歴史の流れの果てに、国家や民族よりも宗族、同族を大切にするという独特の族譜を持つようになっていた。これを「本貫図」という。国家より一族郎党を大切に扱うという姿勢だ。これが当然ながら出生差別にも繋がっていた。金策はこの本貫図を強制的に取り上げ、廃棄し、新たな民族構成図を作成した。その原点となるのは朝鮮民族の誕生神話「檀君神話」である。

本貫図を廃して、「檀君神話」を引き継ぐ「金日成一族神話」を作り上げることにより、いわば戦前の日本における天皇体制を半島の民に授けたと言っても過言ではない。金日成北朝鮮独自の理論とされる「主体(チュチェ)思想」とは、「思想における主体、政治における主体、経済における自立、国防における自衛」と表現される。この理論を最終的に構築した黄長燁元朝鮮労働党書記は、その基礎理論に「天皇機関説」や旧ドイツの「国家有機体説」を採り入れたことを明らかにしているが、金策が提言した北朝鮮建国神話も含め、戦前の日本の影響があったことは誰の目にも明らかだ。

金日成独裁体制を構築した最大の功労者という意味を籠めて、金策の名は「金策工業総合大学」に記念され、そして彼の出生地である城津市は1953年に金策市という名に改名されている。

建国の英雄・金日成以上に巨大な扱いをされている金策について、世界の、そして日本の情報機関は何も調べていない。しかもこの名は、いまなお重大な局面で姿を表しているのだ。

何を語る?「金策」の名前

金策は1951年(昭和26年)に死亡している。その死は、朝鮮戦争による爆死とも事故による怪死とも変死とも伝えられているが、真実は不明だ。その名前は「金策工業総合大学」「金策市」「金策製鉄所」などに残り、顕彰されている。だがそれだけではない。きわめて重大な局面にフッとその名が出現するのだ。

平成14年(2002年)夏――。小泉純一郎首相(当時)の訪朝が決まり日本中が仰天した直後の8月30日から、能登半島沖の日本海に不審船が出現した。海上保安庁の巡視船が直ちに現場に急行したところ、4隻の不審船はUターン。船尾を見せて北朝鮮海域へと逃げて行った。このときの不審船(小型漁船に擬した快速艇)の船尾には、どの船にも「金策」という文字が書かれていた。

――それは単に、「金策市の漁港に籍を置く漁船という意味ではないのか……。そう考える見方もあるだろう。確かにそうかもしれない。だが、小泉純一郎が平壌に行くと発表した直後に現れた不審船が、その船尾に何らかのメッセージを示したものだとは考えられないだろうか。

金策の名は1994年(平成6年)にも一瞬だけ登場したことがある。金日成の死去に伴い金正日が国家主席として登場してきたときのことだ。北朝鮮政府の序列第17番目に「金策」の文字が存在した。工業大学の名に冠せられた金策は40年以上も前に死んでいるのだから、常識で考えればこれは別人。だが、二度と出現してこなかった「序列第17番目の金策」とは、金正日体制を保全するために意図的に書かれた、いわば「お守り」「護符」にあたる架空の人間だったのかもしれない。ちなみに北朝鮮では「17」は神聖な数字の一つだという説もある。その理由は皆目見当がつかないが……。

まったく余談になって恐縮だが、日本では「16」という数字が神聖視される場合が多い。天皇家の菊の御紋章も十六花弁である。なぜ16なのか? 古事記・日本書紀によると、天地開闢のときには「天之御中主命」から始まる5代の神々が成り、続いて「国之常立神」に始まる神代七代に続くが、その最後の神がイザナギ、イザナミである。この二人の神は最初の「天之御中主命」から数えて16番目。日本の始まりはこの二神なのだから16は神聖なのだというわけだ。「十六夜」を「いざよい」と読むのは、イザナギ、イザナミを示す古語「16=いざ」から来ている。では「17」は? 檀君神話の主がスサノオ命を示すところから来ていると考えるのは妄想だろうか……。

余談はさておき本題に戻ろう。大学や市にその名を残す北朝鮮の歴史的英雄・金策について、わが国情報機関はどれほど把握しているのだろうか? 恐らく何も理解していないだろう。わが国だけではない。世界の情報機関も知らないはずだ。だがその名には、重大な秘密が隠されている可能性がある。

もう一度、金策という人物について見直してみよう。金策――キムチェク。1902年(明治35年) 咸鏡北道・城津生まれ。モスクワ共産党大学卒。ソ連内務省に入り、満洲で抗日戦線を背後から支援したソ連軍中佐。金日成を支援し続け、1951年に謎の死を遂げた。その功績が讃えられて出生地は金策市と改名され、工科大や製鉄所にも名を冠せられている。

以後、一般に語られる金策像だが、噂では彼は黒龍会のメンバーだったとされる。黒龍会の指導者といえば内田良平だが、内田は対露工作に全力をあげた民間人。北東アジア安定のために日韓併合を推進した人物でもある。さらに金策には、明石機関の援助を受けていたのではないかとの情報もある。明石機関とは、日露戦争の折に欧州で暗躍した明石元二郎が作った特務機関。明石は日露戦争で日本が勝利した影の功労者で、スペインに亡命していたレーニンの尻を蹴飛ばしてロシア革命を扇動、ロシアの力を内部から削ぐことに成功した人物だ。

いや、もっと怖い噂話も存在している。――法螺、妄想と言われても仕方のない話なのだが、金策の正体は日本人だというものだ。黒龍会会員や明石機関員であったとすれば、日本人が朝鮮人に化けていた可能性はある。もしそうであるなら、北朝鮮の根幹思想の構築に日本人が関わっていたことになる。

さらなる噂もあるのだが、これ以上虚言妄想と思われる話を書き並べても意味がない。
重要なことは、「金策」を徹底的に調べ上げる必要があるということだ。金策の正体、金策の戦略が理解できれば、北朝鮮の正体がより明確に理解できるはずだ。それは必ずや北東アジアの未来に重大な影響を及ぼす。わが国情報機関の真摯な活躍を切に期待したい。■