関東平野の城 … そ し て | 行政調査新聞

関東平野の城 … そ し て

関東平野の城 … そ し て
伊上武夫

『城と地形』

 先月、映画「のぼうの城」に関連して、忍城のことを少し書きました。
 今回は埼玉県にあるお城、忍城と河越城ついて書いてみようと思います。その前に寄り道を。織田信長の居城について少し書きます。

 織田信長が生涯にすごしてきた城は、勝幡城(しょうばたじょう)那古野城(なごやじょう)古渡城(ふるわたりじょう)清洲城(きよすじょう)小牧山城岐阜城安土城の順です。まず勝幡城で生まれ、父信秀から譲り受けた那古野城で育ち、斯波義重から奪った清洲城から桶狭間へと出陣しています。その後、初めて築城した小牧山城で美濃を攻め、斎藤龍興から奪った岐阜城を拠点とし「天下布武」を唱え、そして武田との戦い「長篠の戦い」を終えて、絢爛豪華な安土城を築きます。

 ここで注意したいのは、清洲城までは平城で、小牧山城以降は山城だという点です。城は当然ですが観光地でなく軍事拠点です。守るに易く攻めるに難しでなくてはなりません。となると、新規に築城するなら山上にするのが当然です。身内の反乱が続くような信長ならばなおさらです。この後に秀吉が平地に大阪城を築城しますが、天下統一して敵がいなくなったわけですからこれも問題無かったわけです。
 家康に攻め込まれるまでは。さて、これらを踏まえて、関東平野のど真ん中にある埼玉県の城を見てみましょう。周囲に山も無ければ海もありません。敵の襲来を遮るものが何も無いのです。

『浮城と呼ばれた城』

 ではまず忍城から。 忍城は、室町時代この地を治めた成田氏によって築城されました。場所は埼玉県北部の行田市。北に利根川、南に荒川がある低湿地という地です。「のぼうの城」では、秀吉の備中高松城の水攻めを見た石田三成が、自分もこのような戦をしたいと思う場面があるのですが、たしかに水攻めにするのが良作としか思えない立地です。さて、天正18年(1590年)関東平定に向かう秀吉は、北条家の小田原城を15万3千の兵で攻めます。その別働隊として北条家に仕えていた成田家の忍城を石田三成が攻める事となる。忍城を囲む石田三成率いる秀吉軍は2万3千。対する成田長親勢は69名の侍と420名の足軽。まあ、普通は降伏します。でもしなかったんです。
 石田三成は無駄に自軍の兵を死なせるよりは水攻めで敵を壊滅させる方を選びます。忍城近くにある古墳群の一つである丸墓山古墳上に陣を構え、28キロにも及ぶ石田堤を建設し、利根川の水を利用した水攻めを決行しました。
 が、沼地に建つ忍城はなぜか持ち堪えます。実は、元々低湿地だった場所を埋め立てて忍城を建てたのではなく、湿地に元々あったいくつかの島を利用して城の区画が作られ、その区画間に橋をかけるように作られていたのです。そのため忍城は水攻めに耐え「浮城」の名で呼ばれるようになりました。映画にもなったこの合戦は有名ですが、忍城は秀吉軍と戦う前、天正2年(1574年)に上杉謙信とも戦っているんですね。それも持ち堪えている。結局忍城は一度も落城していません。
 徳川の時代になってからは徳川家康の四男である松平忠吉が忍城に入り忍藩となります。和菓子で有名な「十万石」となるのはこれ以降です。
 明治以降は廃城とされましたが、城跡は公園となり、また天守である御三階櫓が復元され、資料館として開放されています。

『川に囲まれた城』

 次に河越城(川越城)を紹介します。
 場所は現在の川越市。本丸は初雁公園から川越市役所までを含むかなりの広さで、江戸時代からは松平伊豆守信綱や柳沢吉保といった幕府の重鎮の居城となった重要な城です。川越は、そこへ行くには必ず川を越える必要があるからその名がついた、とも言われる地で、河越城は地の利を活かした場所に築城されています。
 ところが、川越にはもう一つ別の城があります。河越館です。築城は平安時代末期にまで遡るという代物。城主は河越氏。桓武平氏の秩父氏内部の争いで畠山氏に追われた秩父重隆の家系が、河越を新天地として拠点とし、姓を河越に変えたのだそうです。河越重隆の孫は河越重頼。その娘(郷御前)を源義経の正妻とするほど勢力が拡大しましたが、義経討伐の際に重頼と郷御前も殺されます。
 政権に関わった者が次々と死んでいく激動の時期を河越氏は室町時代までしのいできたのですが、応安元年(1368年)の武蔵平一揆の失敗で歴史から消えます。
 さて、河越「館」ではなく河越「城」の方はというと、河越氏が歴史から消えて90年後の長禄元年(1457年)に築城されます。扇谷上杉家が古河公方(足利成氏)と対立するための拠点として河越「城」は築かれます。
 河越「城」に扇谷上杉家が陣取ると、仲の悪い山内上杉家は河越「館」に陣取ります。困った事に両上杉家は七年も睨み合うのです。そんな河越「城」を舞台として行われたのが、日本の戦史でもトップクラスの奇襲「河越夜戦」です。
 駿河の今川氏に仕えていた北条家は関東へ勢力を伸ばし、扇谷上杉家の上杉朝興が治める江戸城を攻め落とし、その翌年に扇谷方の岩槻城も内通で攻略し、さらに河越城も奪ってしまいます。
 奪われた城を取り戻そうとする扇谷上杉氏が、それまで敵対していたはずの古河公方、山内上杉家双方と手を組み川越城を包囲します。その数およそ8万。対する北条氏側は3千。後に8千の兵が食糧と共に合流して河越城での籠城が本格的になります。数カ月もの籠城の後、疲弊した様子の北条側が上杉側に使者を出し「城を明け渡す」と降伏の意を表します。しかし上杉側はこの使者を追い返します。
 命乞い混じりの使者がきた事で勝ったも同然の気持ちになったわけで、まあ気持ちはわかる。これでやっと包囲攻城戦が終わると考えた上杉側は油断するわけです。なんといっても無傷の兵力が北条側の七倍近くあるわけですから無理もない。
 軍全体に緩みが広がります。数日後の夜、鎧兜を脱いだ軽装の北条兵の一団が、油断しきった上杉陣営に突入。あっという間に扇谷上杉家当主は討死。山内上杉家と古河公方も敗走。見事に北条側の奇襲成功です。

 8万の兵が一夜にして1万1千の兵に敗走させられたこの奇襲は、信長が今川を破った桶狭間の戦いや、義経が平家を破った鵯越(ひよどりごえ)の戦いに匹敵するものです。この戦いで関東を失った上杉家は、越後に落ちのび上杉謙信を当主とし、また古河公方は役所を北条氏に譲ります。これで関東における北条氏の勢力は確実なものとなりました。戦国時代に入る前の勢力分布に決定的な影響を与えたのが、この河越夜戦なのです。この奇襲を成功させた北条氏の主君である今川氏が、桶狭間で同様の奇襲により当主を喪うというのは歴史の皮肉であります。

『築城の名手、太田道灌』

 最後に、河越城に関連する一人の人物の紹介をします。太田道灌(どうかん)です。江戸城を築いた人物として名を残す太田道灌ですが、彼が江戸城を築いたのは長禄元年(1457年)、河越城と同じ年です。当然ですが徳川家の居城ではありません。河越城と同じく古河公方の勢力を抑える拠点として築城しました。
 河越城は、荒川、入間川、新河岸川に囲まれた地に築城し、河川そのものを天然の障壁として利用しています。これはそのまま、河川を利用した物流拠点にもなり、城下町の繁栄に繋がります。道灌はまた江戸城を築城した時に、当時「平川」と呼ばれていた神田川の流れを変えました。元々は現在の皇居前広場につながっていた川の流れを、飯田橋あたりから直接隅田川に流れるよう河川土木工事を行います。

 後に徳川家康はこの流れをさらに変更し、城を囲む内堀と外堀へと改造します。
 川越の地形を知る太田道灌にも、この構想があったのかもしれませんが、今となってはわかりません。 築城に、土木に、そして戦闘指揮に有能すぎた太田道灌は、仕えていた扇谷上杉家から妬まれ、暗殺されてしまうのです。
 カルタゴのハンニバル同様、有能過ぎるために敵が増えてしまうパターンです。

『守ってくれるものが無いならば』

 周囲に山が無い広大な平野部である関東平野。他の地であれば、山を利用して築城する、もしくは背後の山々を利用して敵の進軍を防ぐ、そういった山地の地形を活用した戦略も立てられますが、関東平野に限ってはそれらが一切通用しない。
 しかし人の営みがある限り勢力争いは起こります。

 守ってくれる山が存在しない、しかし田畑を捨てて逃げるわけにはいかない。このような地であればこそ、敵の攻撃に対して粘り強く且つ徹底的に反抗する気質が生まれてきたのではないでしょうか。その精神は、明治の秩父事件にも繋がると思うのです。いざとなれば立て籠もり、政府にだって戦う気概と実績があります。
 現在の埼玉県知事、ならびに日本の政府の皆様。埼玉県民を怒らせると後が怖いですよ。古来より「武の州(くに)と呼ばれてきたのは伊達じゃないのですから。

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