懐うところがあり・・・ | 行政調査新聞

懐うところがあり・・・

懐うところがあり・・・

5月8日からコロナ禍の喪が明けて復興期に入った感がある今日この頃、久しぶりに書きたくなったことを思い綴ることにした。新型コロナ発祥の地と云われている武漢は日本の近代化の誕生と終焉、そして復興に因縁がある地でもある。そう云われてもピンと来ないのでこれから筆を綴りながら一同に考察を願いたい。

                            

 時は明治27年1894年7月25日の日清戦争開戦から大凡2ヶ月後の同年9月17日黄海海戦が日本帝国海軍連合艦隊と清国海軍北洋艦隊との間で戦われた。 
 この海戦の結果、清国は北洋艦隊の全てを喪失、制海権を奪われることとなった。清国は直ちに海軍再建のため動き出したが、巨額の戦費であったため海戦から16年後の1910年に三菱長崎造船所と川崎造船所に新たな洋式軍砲艦二隻の建造を発注した。このうちの一隻が2年後の1912年6月5日三菱長崎造船で産声を上げ「永豊艦」と名付けられた。後述するが、この永豊艦が後に日本人にとっても中国人にとっても非常に数奇な運命を辿ることになるとは、この時は誰も知る由がなかったであろう。
 そして日本と武漢を繋ぐ逸話にもなるとは皮肉なものである。日清戦争で戦勝した日本の造船技術で造られた新船でもあり、同日の浸水式には米領事、ロシア領事、ドイツ代理領事、ロシア義勇艦隊少将らも一同に参加して、列強からも耳目を集めていたことが伺い知れる。永豊艦は8月26日に公式運転されてから、翌年の1913年1月9日に中華民国に引き渡され、回航は日本側で行ない1月15日に呉淞に着き1月20日に引渡しが完了した。
 お気付きと思われたかも知れないが、永豊艦は清国が海軍再建で1910年に発注、しかし1911年に辛亥革命がおこり政府が変わってしまうと云う事態になり当事者の三菱造船は大慌てで困り果てる中、民国側で買うと云う約束を取り付けたことから、民国側に引渡しと云う。その後の永豊艦の数奇な運命を予期するかのような発注者と引渡し先が違うと云うことがおこるのである。
 更に数奇な運命として民国側に引き渡された大凡2ヶ月後の3月23日には、孫文が三菱長崎造船所を視察し、同造船所の迎賓館占勝閣では午餐会が開かれている。そして後に永豊艦は孫文の命をも救うことになるとは、孫文も思いも寄らなかったであろう。更に更に永豊艦の艦名すらも改名されることになるとは、思いを馳せずには居られなくなるのである。

 さて、ここから先は少し永豊艦の話から逸れて、日清戦争の話題に筆を進めることにする。そうでなければ完結し得ないからだ。興亜の理念で開戦となった日清戦争であったが、戦勝後、群衆が戦勝に酔いしれている最中、下関条約締結よりも以前から異論の建言書を天皇陛下に奉呈された人物がいた。頭山満翁をして五百年に一度の東洋の英傑と言わしたその名も巨人・荒尾精である。

 荒尾精は東亜同文書院の前身である日清貿易研究所を経営した東亜の先覚者で、日清戦争中から一貫して勝ちに乗じて過大な賠償を求めることは、東アジアの安定に甚大な悪影響を及ぼし、結局は日本の国益も中朝両国の国益も損ねるものであると警告を鳴らし貫いた英傑であり、台湾割譲には断固として強く反対をしている。しかし建言書の奉呈も虚しく無下にされ下関条約で明治政府は清国からの戦勝賠償金を海軍の強化と増強、近代化を計り造船所、製鉄所の建設などに費やし、そして台湾も割譲されたのである。そんな荒尾精の意思を引き継ぎ、警鐘を鳴らし続け興亜の復興を願い続けた在野の故村上武さんの遺訓を紹介して永豊艦の話に戻したい。

 昭和二十年の敗戦の日、蒋介石総統が以徳報怨と東洋の義を説き、中国は日本人に対して、過去の戦争は日本の一部の軍国主義者が行ったもので、日本の一般民衆も被害者であると述べて来た。このことばは、日本人を慰め思い遣ってのものであるかも知れないが、日本人としてはこのことばに甘えていてはならないのである。一部の軍国主義者といえども日本人である。その様な軍国主義者、軍国主義的風潮を生んだ原因を探り、反省し改めて行かねばならないのである。だから、その反省は柳条湖事件や盧溝橋事件以降のものであってはならず、明治維新以降、特に日清戦争以降について真剣に考えて見る必要がある。

 村上さんの興亜復興の建言を踏まえて永豊艦の話に筆を進める。
 無事に中華民国に引き渡された永豊艦の運命は、皮肉にも激動の中華民国史に奔走されていくことになる。辛亥革命後に民国は袁世凱の中華民国北京政府と孫文の中華民国広州政府に別れ、大国を二分する内戦へと発展することになり、共産党勢力も暗躍するなど波瀾の時代へと突き進むのであるが、これらを護法運動と称し第一護法運動、第二護法運動或いは第二革命、第三革命とも云われ長崎からたった永豊艦はその渦中で活躍を発揮することになる。

 ここから先は少し筆を早めて、時は1922年6月16日孫文の腹心であった革命軍の陳炯明が内紛から反旗を翻し、クーデターを引き起こす事態となった。その時孫文は黄埔の砲艦に居合わせていて弾が飛び交う中、砲艦から砲艦へ次から次へと乗り急ぎ、漸く最後に永豊艦に乗り込んだ所で九死に一生を得て、永豊艦から指揮を執り艦砲射撃で反撃するも孤立無援となり、黄埔からの撤退を余儀なくされ香港へ立ち去ったのである。それ以来孫文の命を救った永豊艦は、孫文の称号である中山からとり艦名を改めて「中山艦」と冠するのである。

 それからまた、少し筆を早めて1926年3月18日には中山艦事件が発生する。
 皮肉にも国共合作で創立された黄埔軍官学校で寝食を共にしていた国民党の蒋介石と共産党の周恩来との関係が悪化し、国民党による共産党弾圧事件が引き起こされる。共産党党員で中山艦艦長であった李之龍中将が蒋介石の命令で広州に寄港するように命令されたが、これを蒋介石が国民党左派によるクーデターとみなし李之龍中将を逮捕、黄埔軍官学校の周恩来ら共産党員を監禁するなどした。
 この事件を中山艦事件と称し国民党と共産党の双方の歴史に中山艦事件として刻まれ、国父孫文の中山が唯一汚名として残ることになるのである。

 いよいよ中山艦の最期に筆を進める。
 三菱長崎造船所で建造された中山艦の最期は悲惨極まりないもので、日中戦争の最中1938年10月24日武漢攻略戦で粵漢線鉄橋爆撃の作戦を終えて帰る途中だった日本帝国海軍航空隊に、長江にいた中山艦が発見されて命中被弾、その後も機銃掃射など集中攻撃を受け撃沈された。皮肉にも日清戦争の最中に日本人の手によって建造され、清国から政変で民国に引き渡された中山艦の最期は、日本人の手によって撃沈されるとは誰が予期したことだろうか。それはレイテ沖海戦、坊ノ岬沖海戦を彷彿させ中山艦が、亡霊のように語りかけているようで禁じ得ない。

 長崎で産声を上げ孫文の命を救い、国共内戦などで奔走し、武漢で日本人の手によって終焉を迎えた中山艦は、後年に再び脚光を浴びることになる。
 孫文の生誕130周年の1996年11月12日に最初の引き上げ作業が始まり、皮肉にも民国に引き渡された同月同日の1997年1月20日に全ての引き上げが終わり、見事に復元改修がされて現在は武漢中山艦博物館に安座している。
 中山艦は復興と鎮魂の象徴としては見事にその存在を発揮している。
 コロナ禍のあとの東洋復興と鎮魂そして栄光を願うばかりである。 合掌

文責 杉山茂雄

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