夏といえばスイカ、の話 | 行政調査新聞

夏といえばスイカ、の話

夏といえばスイカ、の話
伊上武夫

スイカ4000年の歴史と道のり

 夏です。スイカの美味しい季節です。 
 今回はスイカについての話です。                      

 スイカは漢字で西瓜と書くわけですから明治以前にはあったのだろうと思っていましたが、それより千年も前の平安時代に中国(唐)を経由してきていたらしいです。というのも、「鳥獣人物戯画」の中にウサギがスイカらしきものを抱えている図があるからです。
 これがスイカだとすると、平安時代末から鎌倉時代初期にかけて鳥羽僧正がスイカを目にしていた事になります。他にもポルトガル人が長崎に持ち込んだとか様々な説がありますが、ともかく江戸時代末期にはだいたい日本各地には知られるようになっていました。
 元禄10年(1697年)に刊行された日本最古の農業記録「農業全書」には「西瓜は昔、日本に無かった」との記述があり、正徳2年(1712年)に完成した百科事典「和漢三才図会」では、慶安年間(1648〜1652)に中国から僧が持ち込んだという説が記載されています。
 江戸時代後期の文化元年(1804年)に薩摩藩が作成した農業百科事典「成形図説」には、スイカが図説入りで掲載されています。時期には諸説ありますが、スイカが中国から入ってきたのは間違いないようです。なぜなら我々が漢字で書く「西瓜」が中国語そのもので、中国語の発音が「シーグァ」だからです。ちなみにカボチャも中国語では「南瓜」とそのままですが発音は「ナングァ」です。日本語の「カボチャ」はポルトガルの寄港地であるカンボジアからカボチャがもたらされたからと言われています。
 中国から見て南(カンボジア)から来たのがカボチャ(南瓜)なら、スイカは当然ですが中国の西からやってきたことになります。実際、中央アジアの乾燥地域から入ってきたわけですが、そこも経由地です。
 実は、スイカの故郷はアフリカなのです。現在世界中で栽培されているスイカの種の元になったのはアフリカ東北部の乾燥地域、今のスーダンあたりに自生していた種らしいことはわかっています。4000年前のエジプトのピラミッドの壁画にもスイカが描かれているそうです。また、古代ローマのプリニウスも、解熱作用のある植物として「博物誌」に記載しています。アフリカ原産のスイカが地中海に定着し、さらにシルクロードを経由して中央アジア、中国、そして日本に伝播していったのです。
 水分をたっぷり含んでいるスイカですが、本来は乾燥地に育つ植物で、日本のような湿度の高い地には向いていないというのも面白いところです。
 日本人はスイカというと緑に黒の縞模様の丸い形、赤い果肉に黒い種、といった図をすぐに頭に思い描きますが、本来のスイカは楕円形で、皮は黒、果肉も黄色だったようです。スイカの甘味に目をつけた人間の側が、より甘味が増すように品種改良を繰り返してきたのがスイカ4000年の歴史らしく、黒と緑の縞模様のスイカも登場したのは近代、明治になってから。そういえば「タネなしスイカ」なんていう品種もできあがっているわけで、人間の食欲は罪深いものであります。

スイカ、病気との戦い

 スイカの品種改良については面白い話があります。
 フザリウムという菌が感染する事で発病する「つる割病」という植物の病気があります。最初はつるがしおれ、最終的に全体がしおれて枯死してしまう病気です。
 キュウリやスイカといった瓜科の植物がよくかかります。この病気の一種にバナナがかかるパナマ病と呼ばれるものがあり、1950年代には当時のバナナのほとんどがこの病気のために壊滅してしまったほどです。壊滅したバナナの種は「グロス・ミチェル」といい、現在流通しているのは抵抗力のある品種改良された「キャベンディッシュ」という種です。
 さて、この「つる割病」ですが、先程も書いたようにスイカも被害に遭う病気です。これを意外な方法で防いだ人物がいます。昭和2年(1927年)兵庫県明石郡(現・明石市)の農家竹中長蔵氏が、カボチャの台木にスイカを接ぎ木栽培する事に成功しました。
 野菜の接ぎ木栽培の成功というだけでも世界初なのですが、これは「つる割病」に耐性のあるカボチャにスイカを接ぎ木することで、「つる割病」の被害を受けずにスイカを栽培できる道を切り拓いた画期的な出来事だったのです。そして戦後になり、この技術を元にして、ナスやキュウリ、メロンにトマトなどの接ぎ木栽培が開発され、病害虫の影響を減らして作物が収穫できるようになっていったわけです。
 この技術は今では世界中に広がっている幼苗接ぎ木方の基になりました。
(余談ですが「瓜の蔓に茄子はならぬ」が覆ってしまった技術でもあるわけです)

時代ごとのスイカの姿

 4000年の長きに渡り、人間はスイカの品種改良を重ねてきました。
 古代エジプトではスイカの実の方ではなく種の方を食べていたというから、実の方は美味しくなかったわけで、スイカの品種改良の長い長い道のりと成果がわかるというものです。今みたいにどこでもミネラルウォーターが手に入るはずがない古代エジプトや古代ローマでは、スイカ栽培の意義として、美味いか不味いかよりまず水分確保、水分の貯蔵が重要でした。甕(かめ)にためておいた水は蒸発したり腐ったりします。
 ですのでスイカが乾燥に強い植物なら、なおさら水分貯蔵目的で栽培が普及していきます。死後の黄泉路も水は必要だからという事で、古代エジプトの墓の中からスイカの種が見つかったりします。一緒に埋葬したのでしょう。「北斗の拳」じゃないですが、必要なのはお金より水です…やはり。
 水分の貯蔵ができるなら持ち運びもできたわけで、砂漠を旅する人は乾燥に強いラクダの背に、乾燥に強く保存も効くスイカを大量に積んでいたことでしょう。
 乾燥に強いスイカの種は、人の住む乾燥地域にこのような形で伝播していき、利便性の高さからあっという間に地中海からユーラシアへと普及していったものと思われます。
 さて、水分が確保できるようになったら、次は美味しさを求めるようになるのは世の常人の常。人間は欲が深いですから仕方ない。

 古代イスラエルでスイカはブドウやイチジク、ザクロと同様の扱いとされていたので、この段階で既に甘味を獲得しています。美味しくなればなったで別の意味で人間が群がります。つまり税金の対象です。スイカは納税対象とされていたことは、タルムードにも記されています。この時代のスイカの果肉はまだ黄色だったようで、イスラエルに今も残る5世紀のモザイク画には黄色いスイカの断面図が描かれています。その後スイカは徐々に赤くなっていき、14世紀のヨーロッパの書物「健康全書」では、楕円で赤い果肉のスイカの絵が記載されています。
 17世紀の画家ジョバンニ・スタンキが描いたスイカはイチジクのように白い部分がまだ多いのですが、19世紀日本の歌川広重が「美人画 五節句月の異名 七月 清月 涼月」で描いたスイカは、すでに真っ赤な果肉をしています。4000年の長い道のりを経て、日本に夏の風物詩として定着したスイカですが、21世紀になり奇妙な現象が発生します。
 それは、日本独自の文化になった「夏の浜辺のスイカ割り」が、マンガやアニメの影響で海外に知られるようになったことです。実際、英語版のウィキペディアには「suikawari」の項目があるほどです。スイカを巡る世界の文化は、日本の色に染め上げられるのでしょうか。注目していきたいと思います。

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