「荒川」について | 行政調査新聞

「荒川」について

「荒川」について

伊上武夫

記憶の中の「荒川」

 東京都23区の中にもその名を記す荒川。今回は、この荒川について、語っていきたいと思います。荒川は東京都民より埼玉県民の方に馴染みが深いのではないかと思われます。隅田川のように歌に残ったり、花火大会でテレビ中継されるわけでもないですし、信濃川みたいに日本一長い川でもありません。
 目立たない川のように思われるかもしれませんが、ところがどうして、かなりの代物です。ドラマ「3年B組 金八先生」でいつも金八先生が生徒たちと歩いている土手、あそこは足立区の荒川土手です。ちなみに「男はつらいよ」のオープニングで寅さんが歩いているのは江戸川の土手になります。

 荒川は東京湾に繋がる川ですが、どこから流れてきているのかと言えば奥秩父になります。埼玉・山梨・長野の三県が重なる甲武信ケ岳(こぶしがたけ)が源流です。ここから秩父鉄道の終点でもある三峰口を経由して起点の熊谷まで、ほぼ秩父鉄道に添うように東に流れていくのですが、熊谷からは方向転換して南に向かいます。その昔、今の熊谷から行田のあたりで荒川は利根川と合流していたらしいと知り驚きました。というのも、私が知っている合流地点はもっと南、今の越谷周辺だったからです。ですが熊谷での合流が5千年前と聞いてある意味納得しました。とにかく荒川も利根川も3千年前には熊谷での合流をやめて、各々しばらく別ルートで南下するようになります。

現在の荒川の流れと川幅

 ここで思い出してほしいのが関東の地形です。関東平野は北海道の石狩平野や十勝平野よりも広い日本一の平野です。日本の面積の5%も占めている関東平野は一都六県にまたがる広さで、面積は四国とほぼ同じ1万7千平方キロもあるのです。この関東平野には、群馬と新潟の境にある三国山脈を水源とする利根川、群馬と栃木にまたがる足尾山地を水源とする渡良瀬川、日光を水源とする鬼怒川、秩父の先の関東山地を水源とする荒川と多摩川、神奈川の丹沢山地を水源とする相模川が流れてきます。これら河川が運んできた土砂が長年に渡り関東平野を形成してきました。先ほども出ました3千年前、つまり縄文時代末から弥生時代始めにかけて、だいたい今の関東の地形となったようです。
 面白いのは河川のルートです。相模川は丹沢山地の地形に影響されて大きく弧を描いて流れていますが、他の河川はだいたい真っ直ぐに流れています。しかし荒川は熊谷までは秩父や長瀞の地形に左右されながらも真っ直ぐ東に流れてきたのに、なぜか平野部の熊谷で南に大きくカーブします。これは利根川と荒川が運んできた土砂により互いに合流が阻害された結果と考えるべきなのでしょうか。熊谷で右旋回した荒川は、鴻巣・北本・桶川と今の高崎線沿いに南下しつつ、上尾と川越の境で入間川と合流します。

 この辺りの荒川河川敷の幅は実に広く、鴻巣と吉見の間にある御成橋付近の河川敷は2.5キロ以上あり、その川幅は日本最大です。この広い河川敷を利用して、熊谷や鴻巣では大規模な花火大会が開催されます。両国のようなビルが密集しているところの花火大会とは違い、火災を気にする必要がありませんので数も大きさも桁外れに気前よく打ち上げます。
 熊谷では1万発、鴻巣では1万5千発の花火を打ち上げ、しかも鴻巣では日本最大の四尺玉の花火を打ち上げます。ギネス認定もされたほどです。
 先ほど川幅が2,5キロと書きましたが、現地で見ると荒川はそんなに大きな川ではありません。橋を渡っても川そのものの幅は短く、なぜ幅2.5キロも確保して両端に川堤を作るのかわからないと思います。ですが、大雨が降ると幅2.5キロ全てが川になり、酷い時は川堤を溢れそうになるのです。私は高校大学とこの河川敷を渡って通学していたから何度も見ています。
 そう、荒川は「荒ぶる川」なのです。荒川流域の洪水は文献にも記録があり、古くは平安時代の「日本三大実録」に、また鎌倉時代の「吾妻鏡」にも記載されています。徳川の時代になる直前の慶長元年にも大洪水を引き起こしています。

戦国時代から江戸時代にかけて

 ここで少し話を寄り道します。天正10年6月2日(1582年6月21日)、時の最高権力者である織田信長が明智光秀により京都で暗殺されるという、日本史上最大級の事件が発生しました。「本能寺の変」です。
 この時、堺から京都に向かう途上だった徳川家康たちは、誰を信じてよいのか皆目わからない状況の中、伊賀を越えて本領である三河に戻る決断をします。
 この時、家康たちの脱出に貢献した武将の一人に、伊奈忠次という人物がいました。この人の運命も家康なみに時代に翻弄されていました。
 もともと家康の配下だったのに父親が三河一揆に参加したため出奔。長篠の戦いには駆けつけて参加し武勲を立て、帰参が叶うが、家康の息子信康が武田側と通じていたとされ自刃した時また出奔。そして家康最大の危機に駆けつけてくる。なかなかにドラマチックな話です。伊奈忠次はこの後、家康から出奔することなく働き続けたのですが、戦闘よりも大軍を移動させるための兵糧輸送や街路整備などに才能を発揮し続けます。この人物が徳川の時代の最初期に、検地、新田開発、河川改修工事を各地で行い、徳川長期政権の基盤を作るわけです。

 さて、本能寺の変から8年が経った天正18年(1590年)4月、最高権力者となった秀吉の軍勢が北条氏の小田原を囲みます。北条氏と同盟を結んでいる城が関東各地にありましたが、岩槻・鉢形・館林・八王子そして忍城に豊臣の軍勢は攻撃をしかけ、北条氏は降伏しました。その後、徳川家康は北条氏の代わりとして関東へ移らされます。それまでの駿河や三河、遠江などの領地は秀吉に取り上げられます。周りは北条氏の縁者ばかりの地に行かされた家康は、居城を小田原城でなく江戸城に定めます。この理由はわかりません。
 山城でなく平城の江戸城を選ぶことで、秀吉に対する謀反の意思がない事を示したのかもしれません。とにかく、今の東京駅八重洲口辺りまで海だった江戸城に移った家康は、大がかりな治水事業を開始します。利根川と荒川の流れを変える工事に着手するのです。利根川東遷と荒川西遷と呼ばれる大工事です。

 元々利根川は、荒川と合流して東京湾に流れこんでいたのですが、秀吉が朝鮮に出兵している最中の文禄3年(1594年)に、朝鮮出兵とは関係なかった家康は利根川東遷工事を開始します。家康が任せたのが、伊賀越え以来頼りにしている伊奈忠次でした。利根川が銚子まで流れるようになるまでの間に、関ヶ原の戦い、徳川幕府の成立、大阪冬の陣夏の陣があり、慶長5年(1610年)には伊奈忠次が亡くなり、元和2年(1616年)には徳川家康も亡くなります。
 この両名が亡くなっても工事は幕府の事業として継続し、伊奈忠次の息子である伊奈忠治が引継ぎ、工事開始から半世紀後の承応3年(1654年)に利根川は銚子まで流れ出るようになりました。
 またこれと並行するかたちで、寛永6年(1629年)に荒川西遷工事が開始されたのです。荒川をそれまでの流路から西側に移動させ、入間川と合流させる大工事です。この工事以前の流れの川は「元荒川」と名前を変え今も残っています。
 利根川の東遷と荒川の西遷は、河川の氾濫防止の他に、水運の確保といった側面もありました。
 銚子から利根川と江戸川を経由したルートをと、川越から江戸へと流れるルートは大量の物資輸送を可能にし、周辺の地域に繁栄をもたらしました。荒川と元荒川に挟まれた伊奈町に、伊奈忠次の名は残されています。半世紀以上に渡る河川工事を成功させた江戸幕府は、新たな工事計画を打ち出します。幕府の飲料水確保のため、多摩川から水を引き込もうという「玉川上水」です。
 工事の総奉行には川越藩藩主松平伊豆守信綱、水道奉行には伊奈忠治。玉川上水もまた、利根川と荒川の工事無くしては存在していなかったのです。

現代への影響

 河川の流れは長い年月をかけて流域に文化を形作ってきました。その反面、埼玉県には「荒川の壁」というものが存在します。この言葉そのものは最近出てきたものなのですが、埼玉県在住なら意味するところはすぐ理解できると思います。埼玉県には、東京へと繋がる南北に走る鉄道は多くあるのに、東西に延びる鉄道の数がとにかく少ないのです。荒川をまたぐ鉄道は埼京線と武蔵野線の二本だけで、その運行本数も極端に少ない。つまり、埼玉県民は荒川をまたいだ交流が極端に少ないのです。
 実家が高崎線沿線にあり、高校大学と東上線沿線の学校へ荒川をまたいで通い、今は東上線沿線に住んでいる私は、この壁を強く実感しています。山で区切られたわけでもない平地で、歴史的対立があるわけでもないのに、この交流の少なさは特殊すぎます。これもまた河川の作る文化というものかもしれません。

 あらためて地図を眺めると、埼玉県という土地そのものが荒川の影響を強く受けていることに気づきます。南北に走る東武東上線と高崎線は川越街道や国道17号(中山道)に沿うように作られ、それら街道は水運に沿って作られました。
 熊谷から南の平野部はすべて荒川の氾濫によってならされた地です。埼玉県は荒川によって形成されてきたと言えると思います。

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