「七五三 の 儀式」 | 行政調査新聞

「七五三 の 儀式」

「七五三 の 儀式」
伊上武夫

七五三の由来

 12月になり、行事としては先月の話となりますが、七五三の話をしたいと思います。子供たちの健やかな成長を願う伝統行事であります七五三ですが、起源は古く平安時代の宮中行事にあります。ですが現在に繋がる氏神への参拝の流れは、徳川家長男の成長祈願が始まりらしいです。
 では誰の成長祈願だったのかと言えば、「生類憐れみの令」で有名な五代将軍徳川綱吉の長男徳川徳松だったりします。「徳松?そんな人いたっけ」と思う人は多いでしょう。徳松は館林藩主だった綱吉の長男として延宝7年5月6日に生まれました。1歳未満にして館林藩主になった徳松は、満4歳で亡くなってしまいます。

 館林藩は現在の群馬県館林市にありました。位置的には「群馬県の鶴の頭」にあたる場所になります。映画「のぼうの城」には、石田三成の軍勢が行田の忍城の前に攻める予定だった館林城が名前だけ出てきます。小田原攻めの後に関東入りした徳川家康が、後に徳川四天王に数えられる榊原康政に館林を与えたのが館林藩の始まりとなるわけです。
 榊原康政の長男は、同じく家康の家臣である大須賀氏に養子に出されます。
 次男は早逝していたので三男の康勝が榊原家の家督を継ぐ事になるわけですが、三男康勝も大阪夏の陣の後に26歳の若さで後継ぎを残さず亡くなってしまいます。四天王とまで呼ばれた名門榊原家はいきなり断絶の危機となってしまうわけです。しかし家康が、大須賀氏に養子に出された長男の子(康政の孫)である忠次を後継ぎとするという裁定を下し、断絶は回避されます。
 その後、忠次は松平を名乗ることを許され松平忠次となり陸奥白河藩へ移動。主のない館林は幕府直轄地となります。
 しかし、その翌年に遠江浜松藩から松平乗寿がやってきて館林は藩として復活。その20年後に館林藩主となったのが徳川綱吉です。
 四代将軍徳川家綱(綱吉の兄)が亡くなり、綱吉が五代将軍になると、入れ替わりに綱吉の子の徳松が1歳足らずで館林藩主になるわけです。ところが先に述べたように、徳松は満4歳で亡くなります。館林藩は再び廃藩となり幕府直轄地に戻ります。「分福茶釜の茂林寺」でも有名な館林ですが、この地の歴史もなかなか劇的なのです。

 さて、話を五代将軍綱吉に戻しますが、息子を4歳で喪い他は娘ばかりです。六代将軍は甥の綱豊(徳川家宣)に引き継がれますが、51歳で亡くなると(死因はおそらくインフルエンザ)、七代将軍は3歳の息子徳川家継になります。
 ずいぶん無茶苦茶な話ではありますが、とにかくトップを置かないと物事が先に進みませんので仕方ない面はあります。
 しかし、この最年少で将軍になった七代将軍家継は、最年少で死去した将軍でもあるのです。肺炎で、満6歳で亡くなってしまいます。この後に登場するのが、番狂せに次ぐ番狂せから将軍になった八代将軍徳川吉宗です。紀州藩藩主だった徳川光貞の息子として生まれた吉宗ですが、縁起を担ぐ意味から産まれてすぐ一度捨てられ、家臣が拾って育てるという体裁が取られたそうです。

 縁起担ぎが功を奏したか、吉宗はかなり身体が丈夫に育ち、手に負えないくらいの暴れん坊だったようで、松平健や西田敏行が演じてもウソにならない将軍が八代目でようやく誕生しました。
 さて、ここまで長々と徳川家の事を書いてきたのは、この時代は裕福な家の子供であっても成人まで育つかどうかは賭けに近かった事をご理解していただきたかったからです。将軍綱吉の息子は4歳、将軍家継は6歳で亡くなるのです。家督を継ぐ者がいなければお家断絶となってしまいますが、それよりなにより幼い我が子の葬儀を行わねばならないというのは親として悲嘆の極みです。このような状況が、我が子が無事に成長するよう神にすがり祈願する行事を生んだのです。七五三が江戸時代は関東圏を中心とした地方行事だったのも、徳川由来の武家の行事だったという面が大きいでしょう。

日付と年齢の意味

 七と五と三を足すと15だから七五三は15日、と子供の頃の私は思っていましたが、もちろん間違いです。中国の天文学である二十八宿、つまり東洋版の星座(天文学)では、15日は鬼宿(きしゅく)と言われ「鬼が出歩かず万事上手く行く日」とされていました。ましてや旧暦の15日は当然ですが十五夜の満月です。これに収穫が終わり神仏に感謝する旧暦11月が重なった11月15日は、幼い我が子の無事を地元の氏神に感謝してお詣りするのに相応しい日として選ばれるのも当然であります。また三歳、五歳、七歳の年齢で祝うのは、奇数が縁起が良いとされてきた事と、七五三の宮中由来説の根拠でもある幼少期の年齢ごとの儀式に由来を見る事ができます。
 具体的には以下の通りです。

・三歳で髪を伸ばし始める「髪置(かみおき)」
・五歳で袴を着る「袴着(はかまぎ)」
・七歳で着物の帯の装いを始める「帯解(おびとき)」

 これらの儀式が縁起の良い11月15日に行われたそうです。徳川家をはじめ武家の面々も、これにならって我が子の成長を祈願し、時代がくだって民間にも普及していったのが現在の七五三です。

乳幼児の死亡率

 江戸時代後半、幼児の死亡率は25パーセントまであがり、無事に成人を迎える事ができるのは半数ほどでしかありませんでした。
 女の子に千代子と名づけ、七五三に千歳飴を買うのは、千年も生きるという縁起にすがってでも、なんとかして子供には生き延びて欲しいという親の切ない思いからに他なりません。産まれてきてもすぐ亡くなるかもしれない時代、「七歳までは神のうち」と諦め半分に唱えていました。今でいう出生届、人別帳への記載も四歳くらいになってから行うのも普通でした。
 この状況は近代になっても続きます。最もわかりやすい例として明治天皇をあげます。明治天皇には正室側室合わせて五名のお相手がおりました。世継ぎは必要ですので理解できます。
 しかし、第一子、第二子ともに死産第三子、第四子、第六子から第九子、第十三子、第十五子が夭折(ようせつ)。15人子供が産まれて5人しか成人していません。 
 凄まじい数字です。当時の日本最高の医療が受けられたお立場ですらこれです。昭和になってからも、昭和10年(1935年)は13パーセント近い死亡率で、戦後の昭和25年(1950年)あたりからようやく5パーセントになり、今では0.1パーセント台となっています。これには近代医療制度の充実が大きく貢献しています。乳幼児の死亡原因は、一番は肺炎・気管支炎で、次に胃腸炎・下痢、そして髄膜炎・脳炎と続いていました。これらに対する有効な医療技術の普及が死亡率低下に貢献した事は間違いありません。

正しい情報を

 生存者バイアスという言葉があります。生き残った立場からの視点で物事を考えると、情報に偏りがあるため正確な分析ができなくなるという現象です。
 たとえば「我々が子供の頃はアレルギーなんてものは無かった」という人がいますが、それはその人が単に自分の近親者などに見ていないだけで、実際にアレルギーによる児童の死亡が発生していても「原因不明の急死」とされて気づかなかった場合が多くあったわけです。
 私、伊上武夫は、母親がRhマイナスでしたので、産まれてすぐにRh不適合からの重症黄疸が生じ、大学病院に救急搬送され全身輸血措置がとられました。昔でしたら間違いなく出産直後に死亡していましたし、死亡原因はわからないままだったはずです。両親は前世の行いがどうのと言われたでありましょう。美しい伝統の影には数多くの悲劇がありました。そして医療の発達が悲劇を激減させ、多くの家族の笑顔を育(はぐく)んできました。
 最近また中国で奇妙な肺炎が拡大してきています。軽々しく思い込みで判断して悲劇を呼び込まないよう注意してください。あなたの子どもや孫たちのために、またあなたを大切に育ててくれたご両親のために…

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