宇宙開発の歴史 | 行政調査新聞

宇宙開発の歴史

宇宙開発の歴史
伊上武夫

古き良き時代

 1960年代のSF映画を観ると、宇宙に飛び立ったロケットが、他の星もしくは地球に、飛び立った時と同じ姿で真っ直ぐに炎を吹き出しながら着陸するシーンがあったりします。
 これは映画製作に関わるスタッフが、宇宙探査ロケットの仕組みを知らなかったためにそうなってしまったわけです。実際にはロケットは多段式で、大気圏を脱出したら不用になった燃料タンクやエンジンを切り捨てていきました。なので発射前の姿のままでロケットが下方に炎を噴射しながら着陸するという映像は、間違った知識によって作られた映画の中だけのものでした。ところがたった半世紀で、「間違った知識」が「正しい知識」に変わってしまいます。
 あのイーロン・マスクが代表を務める民間宇宙輸送会社「スペースX」のロケットは、まるで1960年代のSF映画のように、逆噴射しながら垂直に降りてきて着陸するのです。
 というわけで、かつての「技術的に間違った映像」は「時代を先取りした映像」になりました。
 今回は、そんな宇宙開発について書いてみたいと思います。

宇宙旅行協会

 かつて「宇宙旅行協会」という団体があった事をご存知でしょうか。
 少年時代にジョージ・ヴェルヌの「月世界旅行」(1865年)を読んだ世代が、1927年に設立した団体です。まだライト兄弟が有人動力飛行に成功してから24年しか経っていない頃です。ようやくリンドバーグがニューヨークからパリへと大西洋単独無着陸飛行に成功して「翼よ、あれが巴里の灯だ!」と語った時代です。
 日本では大正から昭和に変わったばかりの昭和2年でした。そんな時代に設立された「宇宙旅行協会」には、どこか牧歌的な印象すら感じられます。ところがご存知の通り、時代の流れは滝壺に向かって行くのです。「宇宙旅行協会」が設立された1927年は、第一次世界大戦が終了して9年後で、世界恐慌の2年前になります。そんな時代に「宇宙旅行協会」は、ドイツで誕生したのです。
 技術者・作家・物理学者などが集まって設立した「宇宙旅行協会」は、設立3年目の1930年に、液体燃料を使用したロケットの発射実験に成功します。
 そのロケットの写真が残っています。秩父の竜勢の金属版みたいな代物で、宇宙なんて夢のまた夢でしかないレベルなのですが、これとドイツ軍が結びついた時に強烈な化学反応が起こります。第一次世界大戦で敗北したドイツは、ヴェルサイユ条約で兵器開発に様々な制約をかけられていましたが、当時存在していなかったロケットはその制約とは無関係でした。
 1932年、ドイツ陸軍はこの新技術に注目し、協力を申し出ます。願っても無い大型スポンサーではありましたが、きな臭いものを感じた「宇宙旅行協会」はその申し出を断ります。ただ、その申し出に魅力を感じた「協会」メンバーの学生が一人、ドイツ陸軍と行動を共にすることを選択します。この学生、ヴェルナー・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル・フォン・ブラウンとえらく長い名前なのですが、後に世界から「フォン・ブラウン」だけで呼ばれるようになる人物です。

フォン・ブラウンの時代

 1933年にヒトラーがドイツ首相になると、フォン・ブラウンのグループのロケット開発も進展します。ドイツ北部バルト海に面したベーネミュンデ村に広大な研究施設も与えられてロケット開発は加速します。1934年に500 kg の小型A2ロケットの発射に成功し、1936年までにはA3、A4と進化していきます。
 A4ロケットは約1トン、目標最大高度80㎏、そして目標射程が175㎞ でした。
 この年は昭和11年。日本では二・二六事件が起きた年でした。
 世界は戦争への道を加速していきます。この後ヒトラーのドイツはオーストリアを併合しポーランドに侵攻し、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦へとなだれ込みます。そうした情勢下でA4ロケット開発は、数多くの失敗を繰り返しながら、1942年10月3日ついに宇宙空間に到達し192㎞ 先に落下します。  
 人類初の宇宙空間に到達した人工物体です。

そしてこの頃にはイギリスがドイツのロケットに気づきます。イギリス軍によるロケット開発拠点の攻撃が開始される中、ドイツからはA4ロケットをイギリス攻撃のための新兵器「ミサイル」へ転用を図ります。それがV2ロケットです。軍事作戦に使われた初の液体燃料ロケットになります。目標はベルギー・フランス・そしてイギリス。戦果はロケットより軍用機の方が大きかったのですが、視界に入ってくる軍用機からの攻撃よりも、ドーバー海峡の向こうから高速で飛んできて撃ち落とすことのできないロケット兵器の方が、イギリスへの心理的影響は大きかったのです。
 ところで、海の向こうに飛ぶのはロケットだけではありません。
 ヒトラーが自殺しドイツの敗色が濃厚となった1945年5月、フォン・ブラウンたちロケット開発チームは米国への亡命を画策します。「それってなんかズルいな」と思う人がいると思いますが、ナチスの親衛隊はロケット技術流出阻止のため科学者たちを殺そうとしていたのです。フォン・ブラウンたちは進駐してきた米兵との接触に成功しますが、数百名いたロケット開発チームの大半は後からきたソビエトの捕虜となって連れ去られてしまいます。

米ソ宇宙開発競争

 時は流れ1951年、ソビエトは犬を乗せたロケットを打ち上げ大気圏外に到達成功。犬は生きたまま帰還しました。そして1957年10月14日、ソビエトは初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功します。
 宇宙開発においてソビエトに先を越されたアメリカの衝撃は大きく、「スプートニク・ショック」と呼ばれるようになります。そして決定的だったのが、1961年の世界初の有人宇宙ロケット発射の成功です。宇宙船ボストークに搭乗したのは宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリン。「地球は青かった」という彼の言葉は有名です。

 さて、青ざめたのはアメリカです。宇宙開発を陸軍・海軍・空軍のどこが主体となって進めるか内輪揉めしているうちにソビエトに先を越されてしまったからです。
 そして宇宙ロケット開発の成功は、同時にソビエトのミサイル技術がアメリカを上回った事にもなるのです。事実、1953年にソビエトは中距離弾道ミサイルのテストに成功し、1957年には太平洋や北極海を超えてアメリカ本土を直接攻撃できるところまで到達していました。

 これらソビエトのロケット開発を主導してきた男はセルゲイ・コロリョフという技術者でしたが、ソビエトが入手した大量のドイツ人技術者のデータの存在も大きく役立ちました。そのような状況ですので、当時就任したばかりのJ.F.ケネディ大統領は当然巻き返しを図ります。ちょうどケネディ大統領就任2年前にNASA(アメリカ航空宇宙局)が設立され、非軍事の宇宙開発は全てNASAが主導で行うようになりました。そしてケネディは「1960年代のうちに人類を月に送り込む」という大目標を掲げます。アポロ計画のスタートです。そのプロジェクトの中心となった一人がフォン・ブラウンでした。この後、1969年7月20日にアポロ11号が月面着陸に成功したり、1970年にアポロ13号が月へ向かう途中で大事故を起こしながらも全員生還したり、1975年にアポロ18号とソユーズ19号がドッキングに成功したりと様々な出来事がありました。しかしケネディ大統領はそれらを見ること無くこの世を去ります。
 1963年にダラスで暗殺されてしまうのです。さて、アポロ宇宙船はソユーズとドッキングした18号が最後となります。打ち上げにロケット推進部分を使い捨てするのはコストがかかるからと、同じ機体を繰り返し使用可能とするスペースシャトルが開発されたからです。1980年代からアメリカはスペースシャトル開発を加速し、レーガン政権は「スターウォーズ計画」を提唱します。

 衛星軌道上からICBM(大陸弾道弾)を破壊するという計画で、ハッタリの意味合いが強いものでしたが、このハッタリによる掛け金の上昇にソビエトは耐えきれず、1991年に国家そのものが崩壊してしまいます。ところが奇妙なもので、ソビエト崩壊後のロシア共和国では、ロケットによる宇宙開発ビジネスが盛んになります。
 スペースシャトルを飛ばすよりロシア製のロケットを飛ばす方が、コストが安かったのです。敵対関係でなくなったら安い方選びますからね。かくしてスペースシャトルは2011年を最後に退役となりました。そして宇宙には国際宇宙ステーション(ISS)が浮かび、常に研究者が複数滞在して、イーロン・マスクの民間ロケット会社がISSに向けて人や物質を運搬する時代が到来しました。

 ここまでの道のりにも、戦争とは別に発生した多くの犠牲がありました。
 アポロ1号は予行演習中の火災で宇宙飛行士3名が亡くなっています。
 また1986年のスペースシャトル・チャレンジャー号の打ち上げ直後の爆発事故は7名の、2003年のコロンビア号の大気圏再突入時の空中分解事故でも7名の犠牲者が発生しました。またソビエトでもかなりの死亡事故が発生しております。

1960年バイコヌール宇宙基地で爆発事故があり数百名死亡。
1961年高濃度酸素室での実験中に発生した火災により宇宙飛行士が1名死亡。
1967年ソユーズ1号が大気圏再突入時にパラシュートが開かず地面に激突炎上して死亡。
1971年ソユーズ11号が宇宙空間で換気窓が開く事故が発生。3名が窒息死。
1973年コスモスロケット打ち上げ失敗、9人死亡。
1980年ボストークロケットが発射台で爆発して58人死亡。

 これらの事故の詳細はソビエト崩壊後に明らかにされました。このように死に直結する事故と隣り合わせの宇宙開発で、遠隔操作可能な無人探査機の月面着陸を日本が成功させた意義は大きいと思います。

日本の無人探査機

 SLIM(Smart Lander for Investigating Moon 小型月着陸実証機)と名づけられた無人探査機は、2023年9月7日に種子島宇宙センターより打ち上げられ、2024年1月20日に月面への着陸に成功しました。打ち上げから着陸まで4カ月もかけられるのは、宇宙飛行士が搭乗していないので食料や酸素の消費を計算しないで済むからです。
 無人探査機は目標地点の誤差10 m 以内への着陸に成功しました。
 片側のエンジンが故障したためバランスを崩し、上下逆さまの形での着陸となりました。それがわかったのは、着陸直前に放出していた小型探査ロボットが写真を撮影し送ってくれたからです。このロボットが タカラトミー と SONY による開発というのが日本らしい話です。日本は、月面着陸に成功した5番目の国となりました。

 これまで成功したのは、ソビエト・アメリカ・中国・インドの4カ国です。有人着陸はアメリカだけで、他は全て無人探査機になります。そしてこれが重要ですが、日本は月面着陸に成功した、初の非核保有国になります。
 アメリカは、再度人類を月面に送る「アルテミス計画」を開始しています。衛星軌道上のISSだけでなく、月面にも人類常駐の研究施設が作られる日も近いかもしれません。また、火星への探査・植民を促進することを目的とした、その名も「火星協会」という団体も設立されています。
 あと3年で「宇宙旅行協会」設立から100年です。その時、少しは戦争の数も減っているでしょうか。それとも戦争の影響が宇宙にも及んでいるでしょうか。
 科学技術の多くは戦争により発展してきたのは事実です。ですが、戦争によらず発展する科学技術があってしかるべきと思います。天文学とは、本来そうした分野でしたから。

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