海の向こうからきた新しい技術 | 行政調査新聞

海の向こうからきた新しい技術

海の向こうからきた新しい技術
伊上武夫

渡来してきた稲作

 古来より日本は、海の向こうから渡ってきた技術に影響を受けてきました。それは古代の日本列島において、まずは稲作が始まりだったかもしれません。
 稲作の起源は、その栽培の容易さと年に2回の収穫から、タイなどの東南アジアが発祥地だと思っていました。しかし近年の遺跡発掘とゲノム解析によると、約1万年前の中国の珠江中流域または長江流域が発祥の地らしいのです。
 稲作は文化と社会集団を伴って入ってきたはずです。1人で耕作できる範囲は限られてきますし、森を切り拓き土地を平らにし、水路を作り収穫物を蓄える場所を作り、そして獣やヒトの襲撃に備える必要があります。
 狩猟民族は、どれだけ工夫しても食料(獲った動物の肉)の長期保存はできませんが、稲作は種もみのままならかなりの長期保存が可能です。それは富の蓄積となり一族の繁栄となり知識の継承へと繋がり、やがて狩猟民族を圧倒していきました。
 日本ではこうして縄文から弥生へと文明が移っていきました。

鉄器の伝来

 次に、鉄器の伝来があります。
 古来より加工しやすい金属として「金・銀・銅」がありますが、さらに加工しやすい金属として鉛や錫があります。なぜ加工しやすいかといえば、そこそこの火力でも溶かす事ができたからです。ただ、加工しやすいという事は軟らかいという事でもあります。用途が装飾品なら問題ありませんが、農具や武具といった物には(青銅)の硬さでないと使い物になりません。
 青銅器の文明は世界史の中で一時代を築きますが、それらを鉄器が一気に駆逐します。鉄器が青銅器より優れていたのはその硬度と原材料産地の拡がりです。
 青銅の剣や鎧よりはるかに硬い鉄製の剣と鎧は強力な兵器であり、その威力で勢力を急拡大させたのが紀元前15世紀頃にアナトリア半島(現在のトルコ)に現れたヒッタイト王国です。ヒッタイトの製鉄技術は炭とフイゴを使い400度以上の高温で鉄の精錬を実現しただけでなく、さらに炭にくるんで炭素分を加えて「鋼」の精製も実現させていました。純粋な鉄より鋼の方が、強くてなおかつ加工性に優れているというわけです。この製法は、当然ですがヒッタイト王国の国家機密でした。
 ところが紀元前1200年頃、いきなり現れた「海の民」により、ヒッタイトは崩壊し、鉄器の製法は近隣諸国に流出します。エジプトもミケーネも崩壊する原因となった海の民については謎が多いのですが、とにかくヒッタイト王国の崩壊に伴い製鉄技術は秘密でなくなり、その技術は流れ流れて日本にも入ってきます。
 ここで島国の日本ならではの状況が発生します。世界史的には、石器時代の次に青銅器時代がきて、それから鉄器時代に移るのですが、日本では青銅器と鉄器がほぼ同時に入ってきたのです。とにかく日本では石器時代から一足飛びに鉄器時代に移ったわけですが、日本ではその後独自に製鉄技術が発展し、硬度と粘りを兼ね備える日本刀を生み出すまでになります。

機動兵器としての馬

 そして、馬もまた海の向こうから伝来してきました。
 5世紀の古墳時代の九州に、モンゴル系の馬が朝鮮半島経由でやってきたのです。馬は兵器として伝来しました。機動力の高い有力な兵器だった馬は権力と不可分となります。古墳から馬の埴輪が出土する事からもわかります。
 九州から広がった馬は東北まで産地が拡がり、やがて奥州藤原育ちの源義経が騎馬の機動力をフルに活用した戦法で歴史を変えていくまでになります。
 ちなみに、馬の去勢というものを日本人が知るのは、明治になって日清戦争が起きてからです。この点かなり遅れています。日清戦争の時に日本は列強諸国の軍馬の体格が大きいのに比べて気性が穏やかなのに驚き、逆に列強諸国は日本の軍馬が、体格が小さいのに気性が荒いことに驚き、互いに情報交換をしたところで去勢という技術を知ったわけです。

鉄砲の時代

 時代は移り、米も刀も馬も日本中に行き渡り、その全てが基盤となる形で各地に武士たちが勢力を競っていた天文12年(1543年)、種子島にポルトガル船が漂着します。ご存知「鉄砲」の伝来です。この時を境に、日本に「鉄砲と火薬とネジ」が入ってきます。火薬に関しては、実は元寇の時に出会っています。金属片と火薬を詰めた陶器製の爆弾、その名も「てつはう」です。漢字で書くと「鉄炮」です。
 「鉄砲」ではありません。「蒙古襲来絵詞」にも描かれ「八幡愚童訓」にも記述がある「てつはう」ですが、平成23年(2011年)に長崎県松浦市沖で元寇の沈没船が発見され、「てつはう」の現物も見つかりました。
 ただ、重量が4kgもあった事もわかり、投擲(とうてき)には苦労したはずです。弓の射程距離を考えると、鎌倉武士側はそれほど「てつはう」を脅威と感じていなかったのかもしれません。朝鮮半島まできていた火薬を兵器として取り入れようという動きはその後もないまま、種子島での再度の出合いをします。
 話を鉄砲に戻しますと、ポルトガル船からたった2丁の鉄砲を入手した日本は、なんとかその構造を解き明かし、試行錯誤を重ねて複製し、改良を重ねて鉄砲も火薬もネジも大量生産してしまいます。刀鍛冶の技術の土台があればこその大量生産実現だったと思います。種子島に鉄砲が伝わって32年後の「天正3年(1575年)長篠の戦い」で織田信長が揃えた鉄砲の数は約200丁、そこからさらに39年後の「慶長19年(1614年)の大阪夏の陣」において、徳川軍が揃えた鉄砲の数は、なんと約30万丁。
 この頃の日本全土には約50万丁もの鉄砲があふれかえっていたようで、当時のヨーロッパの鉄砲保有数と同等のものだったらしく、そりゃ他の国と違って植民地にできないわけです。

黒船来航

 日本各地に鉄砲隊が配備されながら、大きな内戦も無いまま300年近く過ぎた頃、帆を張らずに海原を進む鉄の船が日本にやってきます。嘉永6年(1853年)、浦賀にペリー提督の黒船が来航したのです。幕府は黒船を脅威と感じたのと同時に「あれ欲しい」と思います。軍人なら当然です。ペリーが浦賀から退去した1週間後に、幕府はオランダから艦船購入を決定します。その後水戸藩と長崎藩に相次いで西洋式艦船の製造を命じ、江戸時代初期に出された「大船建造禁令」を解除して、各藩に軍艦製造を許します。この間わずか半年です。
 そして黒船来航から6年後の安政6年(1859年)に、幕府は軍艦の製造・購入・艦船操練教育・海軍運用などを一手に引き受ける海軍奉行を設置します。この7代目奉行となったのが「勝海舟」です。貧乏な武士の家に生まれた勝海舟は幼少期から剣術の稽古に明け暮れていたため、冬に稽古着だけで過ごしても風邪もひかない頑健な身体に成長します。また剣術だけでなく蘭学も学んでいました。
 でも貧乏なので欲しい辞書は買えず、店に通って立ち読みです。その辞書が店から消えた時、買った男の家に押しかけて辞書を借り出し、借りた期間内で自分用と売ってカネにするための2冊分の写本をちゃっかり作った話は有名です。
 そんな事をやってる最中に黒船がやってきます。蘭学ができる者として勝海舟は幕府の仕事で忙しくなります。そうなると売国奴と呼ばれだして敵も増えます。
 ある時、身の丈6尺(180センチ)の大男が、勝海舟のところに殺意満々でやってきます。喧嘩慣れしている勝海舟はその大男に対し、現在世の中がどうなっているかの説明をはじめます。すると大男は勝海舟に惚れ込み、先生と呼んでついてくるようになります。この大男が土佐藩の坂本龍馬で、やがて民間の黒船株式会社「海援隊」を作ります。
 長州が勝手にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの軍艦と戦争始めたり、その長州がなぜか薩摩と組んでいつの間にか官軍になったり、賊軍になった海軍副総裁榎本武揚が軍艦4隻と輸送艦4隻で北海道に立てこもり蝦夷共和国を立ち上げるといったバタバタと慌ただしい時代が、黒船来航からたった15年のうちにやってきました。その後半世紀ほどで、日露戦争でバルチック艦隊を完全撃破するほどに日本海軍は成長し、さらに40年後には世界最大の戦艦である大和を自前で建造するまでに至ります。黒船来航から1世紀も経たないうちに、日本の海軍は太平洋からインド洋まで拡がりました。

進取の気性

 ライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功した半世紀後には、零戦の大量生産と航空機主体による戦術の完成を実現しています。世界初のカラー長編アニメーション映画は、ディズニーの「白雪姫」で1937年の公開ですが、その21年後の1958年には戦争でボロ負けしたはずの日本が、長編アニメーション映画「白蛇伝」を完成させています。そこから半世紀足らずで日本のアニメは世界を席巻し、ハリウッドが日本アニメの実写リメイクを行うまでになってきています。
 日本人は、新しい技術を拒否感無く受け入れて吸収し、改良・発展させる能力に長けているのではないでしょうか。そしてその能力は、あなたの中にもあるはずです。
 何事にも恐れずに一歩踏み出しましょう。

(プリントアウトはこちらから)