人類と陶器類・セラミックとの歩み | 行政調査新聞

人類と陶器類・セラミックとの歩み

人類と陶器類・セラミックとの歩み

伊上武夫

土器の発明

 今回は、陶器類について語っていきたいと思います。
 まず最初は、なんといっても「土器」からです。学校の授業で出てきた縄文土器とか弥生土器とかのアレです。土器の発明は人類の進化の中でかなり重要なものでした。なぜなら継続的な煮炊きが可能となったからです。魚や獣の肉を生で食べた場合、寄生虫などの危険性があります。現在まで生き延びた我々の先祖は、生肉に火を通す事でそれらの危険性を回避してきました。そもそも生の水そのものが寄生虫や病原体がいて危険です。土器による煮炊きは生肉や生水の摂取による危険から人類を救ったのです。

 また、植物の多くは加熱することでようやく人間が食べられるものとなります。土器を使い煮炊きを行うことで、食べられるようになった植物の種類は飛躍的に増加したでしょう。この「食べられる」というのは味がどうのではなく「消化可能になる」という意味で、その最たるものがコメです。人間の体内には生のコメを消化する能力がありません。
 生のコメはデンプン分子が隙間無く並ぶ「ベータデンプン」という構造をしているため、デンプンを分解するアミラーゼという酵素も水分子も入り込めないので、人間には消化できない代物です。ところがコメに水と熱を与えるとベータデンプンの構造に緩みが生じます。この状態のデンプンを「アルファデンプン」と言います。我々が食べている「ご飯」はこの状態です。東アジアにおいて土器と稲作はセットで考えるべきものです。

 ちなみに、非常食としても知られる「アルファ米」は、水と熱を加えて「アルファ化」してから乾燥させ固めたもので、保存が効き水やお湯を注ぐだけで食べられるようになっています。さて、そもそも「土器」とは何かと言えば、水を加えた粘土をこねて思うがままの形にした後、熱を加えて固形化したもの、と言えばいいのでしょうか。
 人類がこの、自分たちの欲求にあわせて物質の状態を化学変化させる「焼き物」という技術を手に入れた影響は大きく、煮炊きや貯蔵といった実用的なところから入り、狩の対象(崇拝の対象でもあります)の動物たちの姿を模して形として残す創作活動が始まります。
 洋の東西を問わず原始時代から古代時代にかけて様々な用途にあわせた焼き物が作られてきました。なかでも圧巻なのが、紀元前246年頃に作られたとされる、秦の始皇帝の兵馬俑です。素焼きで作られた等身大の兵士と馬が、現在確認できているだけで2,000体以上あります。今後さらに発見される見通しで、全体では8,000体あると予想されています。それだけの数の素焼きの等身大の像を大量生産した事も驚きですが、信じがたい事に一体ずつ個性を持たせているのです。当時の秦の権力の強大さと職人の技術力の高さがわかるというものです。

陶器と磁器

 ところで、ここまで紹介したものは、どれも土器もしくは素焼きの焼き物ではありますが陶器ではありません。兵馬俑の兵士や馬も陶器とは異なります。
 では、土器と陶器はどう違うのでしょうか。また、よく「陶磁器」と言ってしまいますが、これは陶器と磁器をまとめて言う言葉です。この2つはどう違うのでしょうか。また我々は「瀬戸物」とも言ってしまいますが、これも厳密には産地が限定されたものになります。これらの、曖昧なままなんとなく使ってしまっている「粘土を焼いて固めたもの」について、整理してみましょう。

 重要なのが焼き固める時の温度です。焼き物を作る時、まず粘土に水を加え形を整えてから乾燥させます。それから加熱するわけですが、この時に粘土の中に含まれる水分が完全に消えます。水分の他に、水酸化物イオンの形で含まれる「構造水」と呼ばれるものも、450度以上の加熱で失われます。粘土に加熱をすることで、次に水を加えても粘土の粘性が無くなり固形化されるのです。
 また更に高温で加熱すると、粘土の中に含まれる珪石や長石などがガラス化、流体化して土の粒子の隅々まで入り込み、その後に冷えて固まる事で土の粒子の結合を強めます。
 ここで、焼く時の温度が重要になります。土器(素焼き)は、焼く時の温度が900度以下で、珪石や長石のガラス化が始まるほど高い温度ではありません。陶器は1,200度以上、磁器は1,350度以上の高温で加熱しますので、ガラス化されます。
 さらに、陶器と磁器とを分けるのは原材料です。陶器の材料となる土は「長石10%、珪石40%、粘土50%」の割合ですが、磁器は「長石30%、珪石40%、粘土30%」になります。

 こうなると土というより石です。この原材料と加熱温度の違いにより、陶器は叩くとコンコンと低い音が、磁器は金属に近い高めの音がします。磁器は原材料と製法により、陶器よりもガラスに近く、光もある程度通すのです。
 これら陶器と磁器をまとめて「陶磁器」と言ったりするのですが、同様に「瀬戸物」と一括りにしたりもします。「瀬戸物」は日本における陶磁器の総称であって、本来はその名前の通りの瀬戸内海の周辺で作られた……と思ったら、実際は今の愛知県瀬戸市で作られたのですね。同様に地名のついた焼き物は備前焼や有田焼などあるわけですが、これを陶器と磁器に分けると次のようになります。

「陶器」
 益子焼(現栃木県益子町)・備前焼(現岡山県備前市)・瀬戸焼(現愛知県瀬戸市)・唐津焼(旧肥前国、現佐賀県・長崎県)・美濃焼(旧美濃國、現岐阜県)・常滑焼(現愛知県常滑市)・信楽焼(現滋賀県信楽町)・萩焼(現・山口県萩市)など

「磁器」
 有田焼(現佐賀県有田町)・伊万里焼(現佐賀県伊万里市)・九谷焼(現石川県南部)・砥部焼(現愛知県砥部町)・波佐見焼(現長崎県波佐見町)など

 これだけの焼き物の名称が現在も並立して継続しているという事は、地域の土の性質や窯の焼き方によって、地域ブランドが多数確立してきた事を意味します。
 実用的な器からスタートした土器は、中世日本において鑑賞用の芸術品にまで高められていたわけです。

セラミックとしての利用

 では、実用面ではどうだったのか。ここで焼き物の特性を考えてみます。耐久性や軽量化は金属に劣りますし、電気も通しません。熱の伝導性だって金属に劣ります。この、金属と比較した際のマイナス面が、ごく自然な役割分担を生む事になります。
 代表的なものは調理器具と食器です。土鍋以外の鍋類は金属製が、食器類は焼き物が主流となります。熱の伝導性が高い金属は鍋類にふさわしく、逆に熱い料理を盛っても熱が伝わらない焼き物は皿などの食器にふさわしいからです。
 そして電気を通さない性質から「がいし」として使われています。「がいし」は一般には馴染みの無い言葉ですが、漢字では「碍子」と書き、企業名として使われているものに「日本ガイシ」があります。電線と電柱・鉄塔とを、電気を絶縁させて繋げるための白い陶器が「がいし」です。これが無いと電柱にまで電流が流れてしまい大変な事になります。重要な役割です。自動車の点火プラグの白い陶器部分も同じく「がいし」です。
 焼き物が名前に使われた最も有名な企業は、「東洋陶器」でしょう。2007年にブランド名として知名度が高い「TOTO」に社名は変更されました。
 当然ですが、便器はその使用状況がかなりハードです。絶えずアンモニアやタンパク質が付着し、水が流され、アルカリ性の強い洗剤と硬めのブラシで擦られます。数十キロの重量が長時間かけられます。当然ですが撥水性が求められます。これらの必要条件を満たす材質として、陶器が一番合っているのです。
 家庭にある洋式便器をよく見れば、タンク部分から便器部分、途中の給水経路まで、継ぎ目無しの曲線です。これは複数の造形したものを繋げて一つに成形しているわけですが、粘土状のうちに繋ぎ目を滑らかにしてから加熱させて成形するという、焼き物だからこそ可能な一体成形なのです。この一体成形で、水漏れも汚れがたまることもなく、数十年使い続ける事が可能になるのです。

 また近年では陶器類は「セラミック」と呼ばれるようになり、その用途は飛躍的に拡大しています。医療分野では、摩耗せず人体と拒否反応をしない性質から、骨や関節部分、差し歯といった医療用生体材料としてセラミックが使われています。電子分野ではセラミックコンデンサが知られていますが、スマホやパソコンなどのタッチパネル式の画面のカバーガラスにも使われています。
 スペースシャトルの外壁に貼られていた断熱タイルもセラミックでした。耐熱性があり軽量で強度も要求されるシャトルのタイルは、1,200度の高温に熱した後も人間が素手で触れます。これはタイルを構成するシリカガラス繊維そのものの断熱性に加え、その体積の9割以上が空気であるため、異常なまでに熱が伝わらないのだそうです。

陶器の徒花

 文明と科学技術の進化に歩調を合わせるように、焼き物の土器から陶磁器、そして高機能なセラミックへと進化してきました。しかし80年ほど昔、徒花とも言うべき流れもありました。その一つが「陶貨」です。サルがヒトとなり文明を築きはじめた当初から、貨幣は存在しました。はじめは石や貝などであり、そして銅貨が作られます。高額な貨幣として銀貨や金貨があり、さらに高額な取引手段として金との交換を政府が保証する形で紙の証文が生まれ、やがて紙幣となります。
 このような通貨の進化の流れの中に、陶器が材料として入ってくる理由はまったく無いはずでした。ところが、必要にせまられて陶器の貨幣を作った国家があります。他ならぬ日本です。金属不足に陥った終戦直前の昭和20年(1945年)、政府は低額貨幣の1銭、5銭、10銭貨幣を、陶器製に置き換えるように動きます。しかし陶器で貨幣を製造する技術は当然ですが金属貨幣しか製造してこなかった造幣局にはありません。
 政府は秘密裏に京都市と愛知県瀬戸市、そして佐賀県有田町の民間窯業者に打診し、陶器製貨幣の製造を開始しました。実際には、製造したものの十分な精度と枚数を確保する前に終戦を迎え、陶貨が使われる事はありませんでした。ただ、廃棄を免れた陶貨は、現在も希少な古銭として市場に出回っています。

 また、兵器としての開発もされました。これも終戦間際の日本です。やはり金属不足から、なんと陶器製の手榴弾が製作されました。これは正式名「四式陶製手榴弾」と呼ばれるもので、使われなかった陶貨と違って実際に沖縄や硫黄島で使用されました。この手榴弾、外側の陶器部分を有田などの窯業者に製作させ、内部の火薬や信管などの起爆装置類は埼玉県の陸軍造兵廠川越製造所(埼玉県ふじみ野市)と、そこから仕事を受けていた浅野カーリット埼玉工場が昭和19年(1944年)から製造していました。
 しかし終戦後に慌てて破棄されたらしく、さいたま市と川越市の境を流れるびん沼川の川原に、信管を抜かれた形で大量に廃棄されました。今も丸い陶器の破片がそこかしこにある状態です。ふじみ野市の「市立上福岡歴史民俗資料館」には、造兵廠に関する展示の中に、原型をとどめた陶器製手榴弾もあります。お近くの方は是非お立ち寄り下さい。

 人類の長い歴史の中、土器から始まった焼き物の利用は、手のひらの上の精密機械から人体内部の人工関節や歯科治療、そして宇宙開発にまで拡がっていきました。
 ですがどれだけ技術が進化しても、硬貨と兵器には向かなかったらしく、その後も発展はありません。聖書によると、我々人間の祖たるアダムも土塊から作られていまして、そのせいか同じく土塊から作られた焼き物、陶磁器、セラミックとは相性がいいようです。であればこそ、苦し紛れで一時凌ぎの代役としてではなく、本質を突き詰めた付き合いをしていきたいものです。

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