年号で見る「江戸時代」
伊上武夫
意外と知らない年号の話
いきなりですが問題です。明治天皇が即位されたのはいつでしょうか?
大正から令和にかけて、即位された日から新しい年号が始まるので明治元年と考える人も多いと思いますが、正解は「慶応3年」(1867年)です。
では「明治元年」はいつなのかといいますと、その翌年の慶応4年(1868年)になります。慶応という年号は4年しかありませんでした。といいますか、明治以降は年号の変更は天皇の交代に伴うものですが、それ以前は天災などが起こる度に変えていました。
今回は、テレビの時代劇で大雑把に「江戸時代」で捉えている徳川治世の265年間を、年号とあわせて駆け足で見ていきたいと思います。
江戸時代前期 慶長から貞享
最初は慶長(けいちょう・1596年〜1615年)です。慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍の称号を得てから、江戸に幕府が開設されます。徳川の時代の始まりです。
この時代に作られた慶長小判は金の含有量が多く、現代でも非常に価値が高いものです。面白いのは慶長小判の鋳造が開始されたのが慶長5年、発行が慶長6年ということです。関ヶ原の戦い(慶長5年)で勝利した直後から鋳造開始したことになります。
江戸幕府開設から11年後、大阪冬の陣(慶長19年/1614年)と夏の陣(慶長20年/1615年)があり、豊臣氏滅亡、そしてこの年に慶長も終わります。
次の年号は「元和」(げんな、1615年〜1624年)です。元和元年は1615年で、大阪夏の陣と後水尾天皇即位を受けて改元となりました。この年は武家諸法度で大名を、禁中並公家諸法度で天皇と公家に対して制限をかける法律が決まります。
元和2年(1616年)に徳川家康が亡くなり、元和9年には徳川家光が第3代将軍になります。元和8年(1622年)には長崎で大量のキリスト教徒(イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会、そして日本人)が処刑され、10年(1624年)にスペイン船来航が禁止されます。そして次の元号「寛永」(1624年〜1644年)で、14年(1637年)に島原の乱が、19年に寛永の大飢饉が起きます。その次は「正保」(しょうほう・1644年〜1648年)。鄭成功が台湾からオランダ軍(東インド会社)追放に向けて活躍するのがこの頃からです。
そして、「慶安の御触書」で名前を覚える「慶安」(けいあん・1648年〜1652年)になります。農民を厳しく統制するための法律で、これに反対する面々が徳川家光の死去に乗じて幕府を転覆する、というのが由井正雪の「慶安事件」だったと思っていたのですが、近年の研究では「慶安の御触書」の存在そのものが疑わしいとされています。
慶安2年2月26日の日付(凄い日付だ)が入った文書の写しは間違いなく存在しているのですが、幕府の法令文書としては疑わしい。法令を集めた「御触書集成」にも記録が無いし、キリシタン禁令が含まれるはずなのにそれもない、という事らしいです。
慶安の次は「承応」(じょうおう・1652年〜1655年)。玉川上水が多摩川から四谷まで流れ始めます。そして「明暦」(めいれき・1655年〜1658年)。江戸の大半が焼かれた「明暦の大火」(別名「振袖火事」)が明暦3年の1月18日に発生します。
この明暦の大火を受けて、また年号が変わります。今度は「万治」(まんじ・1658年〜1661年)です。でも万治3年には尾張で「万治の大火」が発生します。幕府も大変です。
しかし、この時の教訓から幕府は「延焼を防ぐための広い通り」の必要性に思い至ります。こうしてできたのか「広小路」です。また防火組織としての「火消組合」も誕生しました。そして翌年万治4年に、京都の御内裏で火災が発生します。この火災を受けて、また年号が変わります。場所が場所ですから当然です。
次は「寛文」(かんぶん・1661年〜1673年)です。この年号も災害が相次ぎ発生します。寛文2年には寛文京都地震が、そして寛文3年には有珠山が噴火します。おまけに奈良の東大寺の二月堂まで失火で焼け落ちてしまいます。ところがどういうわけか、それまではだいたい5年以内に改元していたのき寛文は13年も続きました。
次は「延宝」(えんぽう・1673年〜1681年)です。延宝8年(1980年)に、徳川綱吉が第5代将軍となります。そして「天和」(てんな・1681年〜1684年)、八百屋お七の放火とも言われる「天和の大火」が発生。次の「貞享」(じょうきょう・1684年〜1688年)は、綱吉の生類憐れみの令が出てくる時代でありますが、しかし教科書にあまり取り上げられないけれど重要な変化があった時代でもあります。
日本史上初めて、日本人による暦が採用されます。これを詳しく書きますと本一冊分の分量になりますので(冲方丁「天地明察」など)簡単に説明しますと、それまで日本で採用していた暦は貞観4年(862年)に唐からもたらされた宣明暦を用いていて、日食や月食の計算に2日もズレが出てきていた。また中国と日本の経度差などを踏まえた新しい日本独自の暦を作成したのです。これが、渋川春海が作り上げた「貞享暦」であり、70年間使用されます。
江戸時代中期 元禄から寛延
そして、「元禄」(げんろく・1688年〜1704年)がやってきます。この時代でようやく徳川幕府成立から100年を迎えたわけです。井原西鶴やら近松門左衛門やら松尾芭蕉やらが登場し、江戸城の松の廊下で刃傷沙汰が発生し、斬った側の家臣たちが斬られた側を更に襲撃する「赤穂浪士事件」が起きたりします。そして元禄16年11月23日、深夜の関東を大地震が襲います。元禄地震です。地震が起きたこりゃヤバいと、早速「宝永」(ほうえい・1704年〜1711年)に改元します。
この年号を見ただけで、当時の幕府の苦労が想像できる人もいるでしょう。結局、元禄地震は始まりでしかなかったのです。宝永に起きた地震と噴火を以下に記します。
元年4月 | 東北地方で地震 |
2年12月 | 高千穂峰と桜島が噴火 |
3年10月 | 浅間山噴火 |
4年10月 | 宝永の大地震、津波 |
4年11月 | 富士山噴火 |
5年11月 | 浅間山噴火 |
6年1月 | 阿蘇山噴火 |
6年3月 | 青森の岩木山と伊豆諸島の三宅島が同じ14日に噴火 |
7年3月 | 浅間山噴火 |
8年2月 | 浅間山噴火 |
30年も将軍職に君臨した綱吉はある意味不運な将軍であり、繁栄を極めた元禄の後、天災続きの宝永では5年に京都の禁裏(皇居)まで焼け落ちるなど大変な晩年を迎え宝永6年に亡くなります。次は「正徳」(しょうとく・1711年〜1716年)ですが、この7年間は宝永の後始末に明け暮れたような期間です。宝永以前から天災が続いたため、貨幣の改鋳が幾度か行われました。額面は変えずに貨幣の金や銀の含有量を減らすというセコい手で、最初にやったのが元禄の時代。これに重要な役割を果たしたのが赤穂浪士の悪役吉良上野介だったわけです。で、吉良が亡くなっても一緒に組んでいた勘定奉行の萩原重秀はその後もたびたび改鋳し、その都度貨幣製造の「銀座」の面々が儲かるという絵に描いたような「お主も悪よのう」の状況が到来。これがどのくらい酷かったかと言えば、朝鮮から「お前のところの銀貨は混ぜ物が多くて価値無いからちゃんとした銀貨出さないと朝鮮人参売らないぞ」と言われて専用の銀貨を作っていたほどで、見かねた新井白石が6代将軍家宣に「萩原重秀を罷免しないなら萩原と差し違える」と迫ったくらい。
正徳2年の出来事です。病床にあった家宣最後の大仕事は萩原重秀の罷免となりました。正徳4年には銀座にも手入れが入り、責任者たちが遠島などの刑に処され、そして真っ当な品質の正徳銀の鋳造が開始されます。
ここでようやく「享保」(きょうほう・1716年〜1736年)です。暴れん坊将軍吉宗の時代がやってきました。享保は20年も続き、その間ずっと将軍は吉宗です。
ここまでの出来事を見てきて、財政再建をメインにした享保の改革の必要性を実感します。目安箱の設置とそこからの意見で小石川療養所を作ったのもこの時期です。江戸で享保の改革をバックアップしたのが町奉行の大岡越前です。
享保の次は「元文」(げんぶん・1736年〜1741年)、その次は「寛保」(かんぽう・1741年〜1744年)です。ここまでずっと将軍は吉宗。おまけに大岡越前は町奉行から寺社奉行に。そりゃ番組も長寿になります。そして「延享」(えんきょう・1744年〜1748年)、人形浄瑠璃が最盛期を迎える時代、吉宗は将軍から退きます。次の「寛延」(かんえん・1748年〜1751年)の4年に吉宗が、その次の宝暦(ほうれき・1751年〜1764年)の元年に大岡越前が亡くなります。江戸時代中期は吉宗と大岡越前の時代でした。
江戸時代後期 明和から慶応
「明和」(めいわ・1764年〜1772年)の9年には、目黒から出火し江戸の東側が焼け落ちた明和の大火が発生。この年は他にも災害が多く「めいわく年」とまで言われます。ですからまた改元です。「安永」(あんえい・1772年〜1781年)は、杉田玄白の「解体新書」が出され、平賀源内が殺人で逮捕され獄死します。
そして「天明」(てんめい・1781年〜1789年)です。冷害に岩木山の噴火と浅間山の大噴火が続き、全国で約2万人の餓死者が出ました。次の「寛政」(かんせい・1789年〜1801年)では、伊能忠敬が日本全土の測量を開始し、東洲斎写楽が彗星の如く登場し10カ月で姿を消し、西洋天文学を取り入れた寛政暦に暦法が変わります。「享和」(きょうわ・1801年〜1804年)には「東海道中膝栗毛」が出されるのですが、同じ頃に幕府は蝦夷奉行を設置します。「文化」(ぶんか・1804年〜1818年)にはロシアの船が通商を求めて長崎へきて、幕府が拒否すると翌年に北海道に上陸して番屋を襲撃したりします。
間宮林蔵の樺太探検もこの頃です。「文政」(ぶんせい・1818年〜1831年)は、オランダ人と偽って入国したシーボルトが、伊能忠敬が苦心して作り上げた日本地図をヨーロッパに持ち出そうとしました。「天保」(てんぽう・1831年〜1845年)は、またまた大飢饉が発生し貨幣が改鋳されます。各地で一揆や米問屋打ち壊しが多発しますが、中でも大坂東町奉行所与力だった大塩平八郎が起こした反乱は幕府に打撃を与えます。中山みきが天理教を起こすのは乱の翌年です。「弘化」(こうか・1845年〜1848年)は孝明天皇の即位があります。
「嘉永」(かえい・1848年〜1855年)は、ついにアメリカからペリーが浦賀に、ロシアからプチャーチンが長崎にやってきます。そして日米和親条約を結んだ途端に大地震が頻発して、年号が変わります。「安政」(あんせい・1855年〜1860年)もまた地震は多発。ですから「安政の大地震」は年も場所も複数含めて指す事になります。
手塚治虫の「陽だまりの樹」にも描かれた藤田東湖の死は安政2年の地震です。この頃になって、日本と世界の金と銀の交換比率が違う事を幕府が理解します。簡略化して言いますと、海外から持ってきたメキシコドルの銀貨4枚が、日本で両替すると小判3枚になるけれど、この3枚の小判は海外でメキシコドル銀貨12枚に化けるわけです。
モノを売り買いせずにお金だけ右から左に動かしてカネが3倍になるならみなさん日本に来たがります。というわけで「万延」(まんえん・1860年〜1861年)には、金の含有量を大きく減らした万延小判が登場します。
ロシア軍艦が対馬を占領したり長州や薩摩が勝手にイギリスと戦争する「文久」(ぶんきゅう・1861年〜1864年)を経て、水戸天狗党が挙兵し池田屋で襲撃事件が発生し下関をイギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国が砲撃する「元治」(げんじ・1864年〜1865年)がたった1年だけあり、「ええじゃないか」から大政奉還、戊辰戦争へとつながる「慶応」(けいおう・1865年〜1868)になります。
そして明治が始まり、大正…昭和…平成…令和へと、改元が天皇の代替わりと重なる時間が流れます。書いていて気づきましたが、年号で時代を見ていく感覚は、現代だと「◯◯内閣」で時代を区切る見方に近いですね。だいたい10年以内で交代します。
近代日本の発展は、内戦も外戦も無かった265年間が基礎にある事は間違いないと思います。江戸時代と一言で語るには、徳川の時代は数多くの予期せぬ出来事に彩られ過ぎています。元号と事件とを関連させる視点は持っていたいと思います。明治から令和まで合わせた150年より、まだ100年以上も「江戸時代」は長いのですから。