意外と知らないオリンピック
伊上武夫
波乱含みのパリオリンピック
「2024パリオリンピック」がなんとか無事終了しました。花の都パリの開催とは思えないような頭を抱える品のない開催式とか、選手の宿舎に冷房が無いとか、あのイギリスが本国からシェフを連れてくるほどに酷いレベルの食事が選手に出されるとか、なかなかとんでもない状況でした。なかでもセーヌ川の水質の汚染具合は大腸菌が道頓堀川の4倍という信じ難いもので、インドのマスコミまでが川の汚さを批判するというレベルです。
それでもトライアスロンは行われましたが、競技後に複数の選手が体調悪化して入院しました。世界トップレベルの頑丈人間たちが倒れるんだから一般人なら死亡です。大会開催前には、パリ市長がセーヌ川を泳いで水質改善をアピールしていたのですね。政治家も大変です。これで思い出すのは、核実験後のムルロア環礁でフランス軍の責任者がマスコミを前にして海水浴をして安全性をアピールした件です。発想と行動がまったく同じなのですが、フランスにはそんな伝統でもあるのでしょうか。
そのムルロア環礁から直線距離で1,300キロメートルほど離れた、同じフランス領ポリネシアのタヒチでは、オリンピックのサーフィン競技が行われました。
オリンピックの期間中に8月6日、9日、そして15日を迎えると、いろいろと考えてしまいます。さて、問題はあるにせよ、オリンピックは平和の祭典です。
今回は、オリンピックについて、語っていきたいと思います。
ロマンティックな情熱
今回の「2024パリオリンピック」は「第33回オリンピック競技大会」になります。では第1回はいつどこで開催されたのかと言いますと、1896年のギリシャのアテネです。日本は明治29年、日清戦争が終わった翌年になります。
そもそもフランス人のクーベルタン男爵が、どういうわけか古代ギリシャのオリンピアで4年に1回行われていた競技大会の理念に感銘を受け、これをスポーツのルネサンスとして現代によみがえらせる活動をした事が全ての始まりでした。ルネサンスは歴史の授業で「文芸復興」などと教えられてきましたが、つまるところ「キリスト教に染まる前のギリシャ・ローマへの回帰」に他なりません。
神話時代のイベントを現代に再現するという、文字通りの「Romantic」な情熱がクーベルタンと彼の周辺を突き動かし、1896年にオリンピック競技大会は復活します。ナポレオンが全ヨーロッパを戦闘で屈服させてきた記憶も鮮明に残っているこの時代、つい四半世紀前の1870年にもフランスとプロイセン(ドイツ)との間で戦争していたばかりです。そんな戦争続きのヨーロッパで、各国から選手集めて運動会するなんて、普通に考えたら寝言でしかありません。
キリスト教を受け入れた帝政ローマ末期までオリンピックは続いていたので、ほぼ1500年ぶりの復活です。3日後の復活どころじゃないです。よくもまあ、1500年前に終わったものがいきなり復活できたと思っていたら、違うんですね。
古代でも近代でもない「中世」オリンピック
「オリンピック」という言葉にロマンを(ローマですから当然なんですが)感じる人は昔から存在していて、それまでにも各地でいくつか「オリンピック」の名を冠した競技大会が行われていました。ルネサンス運動は14世紀のイタリアでおこり、やがてヨーロッパ各国に拡がっていきました。その影響もあり、15世紀のイングランド(イギリス)で、古代オリンピックを再現したいと考えた人物が登場します。彼は国王ジェームズ1世の許可を得て、自分の広い牧場を使って競技大会を開催します。
後に地名から「コッツウォルドオリンピック」と呼ばれるようになるこの大会は、途中清教徒革命による中断はありましたが1612年から1852年まで続きます。
クーベルタンによるオリンピック復活が1896年ですから、その44年前まで行われていた事になります。その他にも1834年にスカンジナビアオリンピック、1850年にイギリスでマッチウェンロックオリンピック、1859年にギリシャでザッパスオリンピックが開催されていました。ここまであちこちでオリンピックと名のつく競技大会が開催されていれば、たしかに機は熟していたのでしょう。
しかし何より、ギリシャが独立したというのが大きいと思うわけです。
仁義なき十字軍
ここでザックリと、ローマ帝国がどうなったかを説明します。
神話時代のトロイア戦争で、トロイア側(今のトルコ)の武将がイタリア半島まで逃げてきて、その子孫のロムルスがローマを建国した(紀元前753年)と言われています。建国初期は王政でしたが、紀元前509年から共和制に移行し地中海を中心にヨーロッパやアフリカ北部、ギリシャやトルコまでがローマに組み込まれるほどに巨大になり、そして紀元前27年より皇帝が統治する帝政ローマの時代になります。
共和制末期にローマは中東にも拡大します。そしてイスラエルは敗北しローマの一部になります。その地区で西暦33年に一人の男が刑に処されて死ぬわけですが、その男の弟子たちが男の教義をローマに広めていき、地中海の多神教の世界を中東からきた一神教の価値観が上書きする状況が開始され、ついには西暦313年にキリスト教はローマの国教になってしまいます。
ローマはその後も拡大を続けますが、西暦395年に東西に分裂します。そしてアジア系のフン族やゲルマン民族による掠奪が相次ぎ、西暦476年に西ローマ帝国が滅亡します。コンスタンチノープル(イスタンブール)を首都としていた東ローマ帝国は西ローマ帝国に比べて1000年も長く続くのですが、長く続いた分どこからどこまでが東ローマ帝国の範囲なのか、その定義が難しくなります。
ですがとにかく、コンスタンチノープルを挟んだギリシャとトルコが常に中心だったと考えて間違いないです。
全盛期には地中海周辺部の広い地域を治めていた東ローマ帝国は、やがて現在のギリシャとトルコの一部分だけになってしまいます。かつての業界最大手の大企業が今や本社ビルしか残っていない状況です。ところで、移動してきてローマを脅かした民族はゲルマンだけでなくテュルク系民族も同様でありまして、トルコ人のイスラム王朝セルジューク朝は、現在のトルコの大半だけでなく、東はカスピ海周辺の現在のウズベキスタン、トルクメニスタン(テュルクの国の意味)、イラン北部からイラク全域、そしてイスラエルまで勢力下に置いていました。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は自分たちを脅かすセルジューク朝を攻撃するべく、ヨーロッパのキリスト教社会に向けて「我らの聖地エルサレムは異教徒に支配されているぞ」とアピールを開始します。ずるいですね。
こうして十字軍が結成されます。11世紀末から始まった十字軍は、あちこち掠奪や虐殺しながらアナトリア半島(現在のトルコ)に行ったりエルサレムまで行ったりするのです。この時代のヨーロッパはユーラシア西端の辺境の地であり、文明国はイスラム社会の側でした。十字軍に参加すると罪は許されるし、途中で珍しいものが掠奪できるし、と非文明丸出しな連中で、まあ最近のロシアみたいなものです。ロクなもんじゃない。
そのロクでもない集団が、こともあろうに西暦1204年、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルを征服してしまいます。と言われても訳わかりませんよね。この時の第4回十字軍はセルジューク朝ではなく、別のイスラム王朝アイユーブ朝の本拠地エジプトを攻撃する名目で出発しました。この時エルサレムを支配していたのがアイユーブ朝だったからです。
ですがエジプトまで向かうカネが足りなかった。で、掠奪虐殺ツアー代理店のヴェネツィアの提案にのって、ハンガリーのザラ(現在のクロアチアのザダル)を襲って殺して掠奪して旅費を調達します(西暦1202年)。同じキリスト教国を襲った事に激怒したヴァチカンのローマ教皇はこの十字軍を丸ごと破門します。
当然です。ところがこの連中、その勢いであろうことがコンスタンチノープルを占領します。自分たちがけしかけて始まった十字軍がまさか自分たちを襲ってくるとは思っていなかったコンスタンチノープルはあっさり陥落。
これを知ったヴァチカンの教皇は破門を取り消して「お前らはやくエルサレムに行け」とせっつくわけですが、そりゃ砂漠まで行って死ぬかもしれない殺し合いするより豊かな都市を贅沢にしゃぶり尽くす方がいいに決まってます。十字軍はそのまま居座って「ラテン帝国」を名乗ります。まあ、会社に押し入って社員皆殺しにした盗賊集団がそのまま社長だ専務だ重役だと名乗り出したわけです。
馬鹿みたいな話ですが歴史上実際にあった話であります。さらにこれが、地中海貿易の富を独占するためにコンスタンチノープルのライバルだったヴェネツィアによって仕組まれたらしいというのが、まことにグロテスクな話です。
結局半世紀後に東ローマ帝国の亡命政権グループの逆襲喰らって、西暦1261年に「ラテン帝国」は歴史から消えますが、この出来事が東ローマ帝国の寿命を短くしたのは間違いないわけです。復活した東ローマ帝国は西暦1223年からモンゴルに痛めつけられた後、西暦1453年にイスラムのオスマン帝国によって滅びます。これ以降、バルカン半島のギリシャは400年近くオスマン帝国の支配下にありましたが、1821年に独立戦争を経てギリシャ王国として独立を果たします。そして1896年、ギリシャのアテネで第1回の近代オリンピックが開催されるわけです。
ギリシャがイスラムのオスマン帝国から独立した事が、オリンピック復活の夢をフランス人のクーベルタン男爵に見させた事は間違いないかと思います。しかし「スポーツのルネサンス」とクーベルタン男爵が考えたのは、少々皮肉な事であります。というのも、ルネサンスは辺境のヨーロッパが十字軍でイスラムの進んだ文明に接した結果起きた運動だからです。
イスラムから独立したギリシャは、キリスト教ヨーロッパの中に組み込まれたわけですが、キリスト教以前のギリシャ・ローマ文明に対する郷愁がヨーロッパ諸国に根強くあり、それがオリンピック復活を後押ししたのかもしれません。
なお、オリンピック復活に向けて各国を飛び回り、1896年のアテネだけでなく、1900年のパリ、1904年のセントルイスを経て現在まで続くオリンピックの基礎を築いたクーベルタン男爵は、フリーメーソンのメンバーでもありました。