「丸い地球の話」
伊上武夫
アレクサンダー大王の時代
地球は丸い。この今は当たり前の事実が、どのように突き止められ普及してきたか、という話をしていきたいと思います。紀元前356年にマケドニア王国で生まれた男がなぜか戦争の天才で、ギリシャ・トルコ・エジプトに次々と勝利し国家を拡大します。
世に言うアレクサンダー大王です。彼はエジプトの王にもなり、ペルシア王国(現イラン)まで滅ぼし、さあ次はインドを制服するぞとなったところで兵たちがサボタージュ起こします。そりゃそうです。なんせ紀元前300年代です。ペルシアまでの大遠征に10年かかっています。兵たちだって人間です。みんな家に帰りたい。まあそうだよなと帰国を決意したアレクサンダー大王は、インドからバビロン(現イラク)に戻ったあたりで高熱に倒れます。
原因はマラリアのようです。世界征服しても蚊より弱いのが当時の人間です。紀元前323年6月10日にアレクサンダー大王は亡くなります。この時なんと32歳。秦の始皇帝が生まれるより100年以上前でこれですから、マンガの主人公のような人生です。
アレキサンドリアでの出来事
さて、アレクサンダー大王が亡くなった後のエジプトは、友人のプトレマイオスが統治します。プトレマイオス朝の始まりです。16歳までアリストテレスの教えを受けていたアレクサンダー大王の影響か、プトレマイオス朝の王たちは知識の収集に貪欲でした。
エジプトの都市アレクサンドリアの「アレクサンドリア図書館」に情報は集められ、古代世界最大にして最高のデータベースへと成長していきました。この「アレクサンドリア図書館」の歴代館長の中に、エラトステネス(紀元前275年〜紀元前194年)という人物がいました。
アルキメデスの友人でもあるエラトステネスは、図書館の膨大な資料の中から「アレクサンドリアのほぼ真南にあるナイル川沿のシエネという町(現・アスワン)では、6月21日の夏至の日の正午になると建物から影がなくなり、井戸を覗くと真上にきた太陽が井戸水に映る」という記述を見つけます。おそらくは書いた人も現地の人も、「夏至に向けて影が短くなって、ついには無くなる土地もあるんだよ」という、それ以上の感覚は無かったはずです。
ところが科学者エラトステネスは違っていました。まずエラトステネスは、夏至の日にアレキサンドリアで建物に影ができる事、そして影の角度を確認しました。
エラトステネスは考えます。もし大地が平らなら、夏至の日にアレクサンドリアもシエネと同様に建物の影は無くなるはず。しかしそうはならなかった。であれば、大地は平らではない事になる。いやそれどころか球体であるかもしれない。
エラトステネスがそう考えたのには理由があります。彼は北極星の角度が地域によって差がある事を知っていました。なんせ北海道あたりから赤道周辺までアレクサンダー大王は支配したのですから、星を頼りに移動していた軍隊からの情報が集まっていたわけです。
もし大地が球体であるなら、その大きさを測れるかもしれない。知識欲に満ちたエラトステネスは考えます。エラトステネスはこの時、2つのデータを持っていました。
1つは夏至の日のシエネの影の角度(0度)。もう1つは同じ夏至の日のアレクサンドリアの影の角度(7度)。ならば次に入手すべきはアレクサンドリアからシエネまでの距離です。エラトステネスは人を雇い、同じ歩幅でアレクサンドリアからシエネまで歩かせて歩数を調べました。そして約800㎞という情報を得ます。地球が球体であるなら7度は360度の約51分の1ですから、800㎞ を51倍すると4万800㎞ になります。現在わかっている地球の周囲は約4万㎞ ですから驚くべき精度です。その後エラトステネスは、アレクサンダー大王によって手に入った世界の情報を元に、正確な世界地図を作ろうとしていました。現在の目からは不正確ながらも、南北を走る経線と東西を走る緯線を地図上に書きます。
そして約300年後、同じくプトレマイオス朝のアレクサンドリアで活動する学者が、大地が球体である事を前提として、西はアイルランドから東は中国まで可能な限り地形と緯度経度を記した全8巻の書物「地理学」を発表します。その書には地中海世界を中心とした世界地図も付いていました。この学者の名をプトレマイオスといい、彼の書いた「地理学」(西暦150年頃)は長く地中海世界の権威であり続けました。
で、まったくの余談ですが、エジプトの王としてのプトレマイオス一族と学者のプトレマイオスは血縁関係に無いようです。同じ時期の同じ場所の重要人物に同じ名前があると困ってしまうのですが、フォード大統領と自動車のヘンリー・フォードと大統領を演じたハリソン・フォードに血縁関係がまったく無いのと同じだと考える事にしましょう。
大地は球体であるというのが知識階級の常識になるほど古代地中海世界の科学の知見は深いものでした。ではなぜ大地が球体である事がその後長く忘れ去られたのか。それはアレクサンドリア図書館が破壊された事が大きいと思います。
アレクサンドリア図書館は4世紀末、キリスト教を国教とした後のローマにより破壊されます。この無知な連中は異教の書物を焼く事に使命感を持っていました。軍事的な庇護が無ければ科学的な正しさも存在する事は許されないというのは、苦い認識であります。
復元された叡智
キリスト教が広がったヨーロッパは、イスラム教が広がったアラブ社会と比べて知識の暗黒時代が続きます。どちらの宗教的教義が優れていたとかではなく、アレクサンドリア図書館から派生した知識が中東で生き延びていたと見るべきでしょう。アラブの都市にはヨーロッパと違い下水道があり、医学や天文学の知識もヨーロッパより進んでいました。
そこに野蛮なキリスト教徒が徒党を組んで掠奪虐殺ツアーを開始してきます。世に言う十字軍です。十字軍は良くも悪くも、アラブ社会の進んだ文明にヨーロッパが気づくきっかけとなり、そしてまた良くも悪くも、軍隊が陸路と海路を使っての長距離の移動を繰り返したため、正確な地図の必要性をヨーロッパ側が痛感するようになります。
十字軍は1000年代から1200年代まで続き、どうも地中海の向こう側の方が科学技術が進んでいるようだとヨーロッパ側が理解し、1300年代からイタリアでルネサンス運動が始まります。大っぴらに異教徒に学べと言えないのでギリシャ・ローマ文明の再評価の形を取ります。中東の様々な書物がラテン語に翻訳されヨーロッパに入ってくるようになりますが、ついに1406年、プトレマイオスの「地理学」がラテン語に翻訳されます。かろうじて残っていた写本からの翻訳です。やはり本は焼いてはいけませんな。翻訳された「地理学」に地図は付いていませんでしたが、「地理学」に記載されていた各地の緯度経度情報を基に地図が再現されました。現在残っているのはこの時再現された地図です。
この地図を持って1492年にコロンブスは出航します。地球は丸いという彼の信念はプトレマイオスから受け継いだものでした。
残酷な神が支配する
プトレマイオスの地図を基に、陸路と海路が開拓されていき、地図が1300年ぶりにアップデートされはじめます。マルコ・ポーロの死後の1477年に、語った内容が「東方見聞録」という形でドイツで出版され、ヴァスコ・ダ・ガマが希望峰を渡りマゼランも世界一周をするようになって、世界は大航海時代を迎えます。そして地形や位置、距離などの様々な情報がヨーロッパに集まってきます。ベルギー生まれオランダ育ちの地理学者メルカトル(1512〜1594)は、地理学の他に幾何学と天文学も学んでおり、それらの知識を総合して詳細な航海用地図を作成します。今も世界地図といえば「メルカトル図法」の地図が主に使われているくらいに彼の地図は優れていました。
しかし当時のキリスト教会の「当局の教えと異なる情報の流布」に関して厳しい事、現在の共産主義国レベルでありまして、メルカトルも逮捕投獄されてしまいます。とはいえメルカトルの地図がないと安心して大金を投資できない貿易関係者と軍事関係者はいっぱいいますので、彼は牢屋から出る事ができました。しかしそれでも7カ月も牢屋にいたのですから、教会側は火炙りにしたかったんでしょうなあ。牢屋から出たメルカトルは、ヴィルヘルム5世の後ろ盾を得てデュースブルクに招かれ晩年まで過ごします。絶縁状がまわった者を匿う親分が現れた、みたいな状況でありましょう。
丸太と結び目
地図には緯度経度が記されるようになりましたが、北極星の角度からすぐにわかる南北の緯度に比べて、東西の経度の誤差は軽度と言えません。なんせ基準になるものが無いのですから。特に海上が。そこで、現在にも残る2つの用語が出てきます。ログとノットです。
業務の記録を残すという意味で「ログを残す」という言い方をしている「ログ」ですが、本来の意味はログハウスのログと同じで丸太(log)です。船舶では航海日誌の意味で使われていました。これは昔、丸太を船首から流し船尾で回収して、船尾まで丸太が流れ着く時間を砂時計で計ることで船の速度を計測していた事に由来しています。
また、速さの単位であるノットですが、語源は「結び目(knot)」です。等間隔で結び目を作ったロープの先に木材を縛り海に投げ入れ、一定時間(砂時計)の間にどれだけの結び目が手の中から移動したかで船の速度を計測しました。このような涙ぐましい努力を重ねて、正確な海図をなんとか作成しようとしたのですが、経度を正確に計測できないのでどうしても海図にズレが生じてしまいます。このズレが大事故を引き起こしました。
1707年、トゥーロン攻撃戦の帰途にあったイギリス海軍の艦隊が、イギリス南西部のシリー諸島で濃霧のため4隻座礁、1千人を超える犠牲者を出す大惨事になりました。
時を刻む機械
この大惨事を受け、正確な海図作成の必要性を認識したイギリス議会は動きます。正確な経度測定法を確立すべく「経度委員会」を設立しました。メンバーにニュートンとハレーがいるのですから本気です。ハレー彗星を発見したあのエドモンド・ハレーです。
大地が球体なのはもう常識になったので、これを360度に分割した線を北から南へ引いた正確な図面を作る必要があるわけですが、委員会が出した結論は「秒単位の精度がある時計があれば測定できる」というものでした。丸い地球は1日に一回転しています。
正午には太陽が真南にきます。24時間で太陽が360度動くという事は、1時間で15度動くという事になります。つまり、正確な時間に設定した時計を持って出航して、海上でその時計が正午になった時の太陽の角度が判れば、逆算してその場所が出航前の場所からどれだけ経度が違うのかが判るわけです。ところが問題は時計の方にありました。当時の時計は振子式ですので、揺れる船の上では正確さが維持できません。とはいえ、何もしないわけにはいきませんので、イギリス議会は「イギリスから西インド諸島間の航海で、経度誤差が1度以内の測定方法を発見したものに報奨金を出す」という「経度法」を制定します。いわば英国国王杯で各馬一斉にスタートを切ったわけですが、あらゆる名馬をさしおいてレースに勝ったのは時計職人のジョン・ハリソンでした。
ハリソンの作った時計はかなりの精度でしたが、改良を重ねても戦争勃発とかいろいろあってなかなか報奨金がもらえず、それでも改良に改良を重ね、最終的にはハリソンの息子が見るに見かねて国王に手紙を書き、ようやく報奨金が支払われました。この間なんと約40年!しかしハリソンは高齢になっても腕は衰えておらず、第1回の1736年のテストでは秒単位の誤差がありましたが、1772年のテストでは誤差が0.3秒でした。
星が導く現在
正確な測定方法がわかってから、地図の精度は加速度的に進みます。
技術の進歩に伴い、電信・無線・航空機、そして人工衛星を使って正確な緯度経度情報の測定と伝達が可能になりました。人工衛星に関しては、あまり知られていない話が1つあります。1990年7月17日、カナダ北極圏のとある海岸沖で、小さな実験が行われました。
そこは一番近い町からでも3日はかかる場所でした。男はその場でャンプの用意をした後、持参した小さな機械を取り出してアンテナを伸ばしスイッチを入れました。それから2時間後にカナダの救助隊の快速モーターボートが2隻、正確に彼のキャンプ地に到着します。
彼がスイッチを入れた機械は緊急捜索用信号機で、これはそのテストでした。ボートで急行してきた救助隊はテストについて一切知らされていませんでした。彼はカナダ政府からの書類を救助隊たちに見せ、政府から機械の動作と救助隊の行動のテストを委託されたと説明し、立腹気味の救助隊たちにキャンプ鍋で作った大量のシチューをふるまって機嫌をなおしてもらったそうです。彼の名はC.W.ニコル。上皇陛下とも謁見された、後に日本に帰化する作家です。この話はニコルさんのどの本にも再録されていないようですが、1993年の日経パソコンに間違いなく掲載されていました。
ニコルさんがテストに関わったこのシステムは、その後湾岸戦争が始まったため民間への実用化は後回しになりましたが、今は民間に解放されています。
現在我々がカーナビやスマホで使用しているGPSそのものです。現在はGPSシステムを内蔵させたライフジャケットも実用化されました。漂流者の正確な緯度経度がわかれば救助もこれまで以上に迅速に行うことができ、漂流者の生存確立も高まります。
人類は星や太陽を道標として旅を続けてきましたが、現在は星が見守ってくれるようになりました。これも二千数百年に及ぶ知恵と知識の積み重ねによるものです。
我々人類が今後どこへ向かうのか皆目見当もつきませんが、道を誤って積み重ねた成果をゼロにしてしまう事だけは避けたいものです。