「博覧会」について | 行政調査新聞

「博覧会」について

「博 覧 会」 に つ い て
伊上武夫

夢よ もう一度

 大阪万博が来年に開催されます。記念硬貨の発表など、関連した報道も増えてきました。東京でオリンピックが行われ、その数年後に大阪で万博という、今が21世紀で年号が令和だと思えない流れであります。これで東京大阪間に新型高速鉄道(リニア)が開通していたら完璧だったかもしれませんが、それは某県知事が全力で妨害して実現されませんでした。
 さて、来年の大阪万博は正式には「2025年日本国際博覧会」です。
 でもこの名称、あまり聞かないですね。開催地が大阪に決定したのは平成30年(2018年)でしたが、その時のライバルがバクーとエカテリンブルクだった事もあまり知られていません。両都市ともロシアでして、もし大阪が負けていたら戦争中のロシアでの万博開催となっていたわけです。どう考えても客来ないですね。いやそもそも万博自体が中止になっていたかもしれません。今回は「オリンピックのように明快な内容ではないけど、なぜか世界中で継続して開催されている博覧会」について、語っていきたいと思います。

始まりは やはりパリ

 世間一般に言われる「博覧会」は「万国博覧会」の事になりますが、その前段階として当然ですが国内の博覧会がありました。時に1798年、フランス革命時代のパリで開催されたのが最初です。様々な品々を集めて展示したわけですがこれが好評で、1849年までの約半世紀の間にパリで11回も開催されました。つまり5年に1回は開催されたわけです。あまりの盛況ぶりにベルギーやオランダなどの近隣諸国も同様のイベントを行うようになってくると、じゃあ複数の国が参加できる共通のイベントにしたらいいんじゃないかという話になるわけです。そこで1849年にフランス首相が音頭を取り、第1回国際博覧会が1851年にロンドンで開催される事になりました。
 この時日本は嘉永3年。ペリーの黒船来航までまだ3年もあります。

日本と博覧会

 さて日本ではどうだったかと言えば、意外にもパリの博覧会より前の宝暦7年(1757年)に、江戸は湯島で物産会が開催されています。これは別名「薬品会」とも言われ、全国から薬になる薬草や鉱物が集められ展示されました。この日本初の物産会は、一般公開はされていませんがその後も何度か行われました。

 この立案者は本草学者の平賀源内と田村藍水です。
 100年以上の時は流れ慶応3年(1867年)となりますと、フランスはパリで第2回万国博覧会が開催され、そこに幕府だけでなく薩摩藩と佐賀藩が参加するようになります。もはや自分がナンバー2だと諸外国に主張する薩摩の態度が想像できます。

 この翌年の慶応4年で徳川政権は終了し、薩長による明治政府が始まります。明治政府になってからは明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会に参加します。この時代のウィーンはオーストリア=ハンガリー帝国の首都でした。この万博に参加した事は日本と世界の転換点の1つと言っていいと思います。明治政府としては、世界に日本の物産をアピールし輸出による産業発展という目的が間違いなくありました。
 しかし、「日本でもこれくらいはできるんだ」と工業製品をアピールしたかった日本政府に対して外国人スタッフたちは、もっと東洋的なものをどんどんアピールするべきだと助言してくれました。この助言に従って会場の約1,300坪の敷地に日本庭園と神社を作り、浮世絵・大和絵に越前和紙・実物の金のシャチホコに大仏の模型、そして様々な美術工芸品を展示したのです。

 この試みは大成功となり、ヨーロッパで日本ブーム「ジャポニズム」が起こります。
 ウィーン万国博覧会の3年後には「japonisme」という単語が辞書に載るほどです。クリムトやゴッホ、モネといった画家たちが日本画の影響を受けた作品を次々に発表していきます。なお、東洋的なものをアピールするべきと助言してくれた外国人スタッフの2人はアレクサンダーとハインリヒの兄弟。この兄弟のファミリーネームはフォン・シーボルト。あのシーボルトの息子たちです。シーボルト事件から45年経ち、兄のアレクサンダーは日本に渡り明治政府の翻訳官や井上馨外務大臣の秘書官になり、弟のハインリヒはオーストリア=ハンガリー帝国の外交官になっていました。このウィーン万国博覧会には岩倉使節団も立ち寄ります。
 日本を発った時はチョンマゲの和装だった岩倉具視が、1年10カ月後に帰国した時は髷を切って洋装になっていたのは有名です。お城より高い建物が大量に建っていて、そこに平民が住んでる世界を見てしまっては考えを改めざるを得なかったでしょう。万博会場で見た様々な物産もハッタリでは無いのだとも、その後の各国歴訪で痛感したでしょう。そのようなわけで、世界は日本に東洋的な神秘を見るようになり、反対に日本は世界にパワー負けしないように工業化を目指して走り出すという、明治の時代が始まっていきます。

内国勧業博覧会開催

 ウィーン万国博覧会から4年後の明治10年(1877年)8月、日本で内国勧業博覧会が開催されました。ウィーン万国博覧会の影響で始めたわけですが、「勧業」の文字が入っているわけで、第一の目的は産業育成です。ところが博覧会というものを見た事がない日本人が圧倒的多数という状態でしたので、「新政府が上野で見せ物をするらしい」というのが当初の一般の認識だったようです。そんな状況で、様々な物産を集めたり、新型の工業機械を頭を下げて移設してもらったり博覧会参加を訴えたりしていった各地の行政担当者の苦労は並大抵では無かったと思います。

 さらに、この年の1月から9月にかけて起きた西南戦争の影響もありました。なんといっても明治維新の立役者、西郷隆盛の反乱です。地方反乱の「役」扱いですが、廃藩置県後の全国の旧士族たちの不満が背景にあるのは明白です。西郷隆盛による10年ぶりの「維新」を期待している者は士族以外にもいたわけで、新政府はなんとしてもこれを潰さねばなりません。このような理由で政府は反乱鎮圧に予算の大半を費やしてしまい、内国勧業博覧会の予算は大幅に減るわけです。しかし博覧会出展関連の運送費の一部を国が援助する法律が成立したり、荷物や出品者や地方役人の船の移動費用を民間業者が一部負担したりして、とにかく開催できました。出展された品々は単に展示されるだけでなく、分類され審査され、様々な賞が与えられました。

 その中で最優秀と認められた展示品は、信濃の国の発明家、臥雲辰致(がうんたつむね)氏による紡績機械でした。彼の発明した紡績機械、通称「ガラ紡」は、より少ない資本で製造できる簡易な構造となっていました。そのため急速に普及し、そしてコピー品も大量に出回りました。そのため発明家の元にお金はあまり入ってきませんでしたが、ご存知の通り明治時代の日本の輸出産業の基礎となりました。

幻の東京博覧会

 輸出産業が紡績しか無かったような時代に、日清戦争(明治27年/1894年)と日露戦争(明治37年/1904年)が起きます。そこをなんとか勝利して西洋列強プラスワンの立場になろうとする時に、関東大震災(大正12年/1923年)が発生します。
 その3年後に大正天皇の崩御と青年昭和天皇の即位、昭和の時代が始まります。そして震災からの復興の意味も込めてだと思いますが、日本でオリンピックと万国博覧会を開催しようではないかとの動きが始まります。で、どうせやるなら紀元2600年の昭和15年(1940年)にしようじゃないか、となるわけです。
 当時の外務省は仕事していたらしく、なんとオリンピックと万博の両方とも紀元2600年に開催できる事になりました。盆と正月とクリスマスが一度にくるようなものです。国の予算が心配になってしまいます。

 ところが話はそう上手くはいかないもので、皆様ご存知の通りこの2つは幻に終わります。昭和12年(1937年)に起きた盧溝橋事件、そこから発生した日中戦争の激化が原因です。幻に終わった東京オリンピックは戦後の昭和39年(1964年)に、東京万博は大阪万博(日本万国博覧会)として昭和45年(1970年)に実現されます。しかし、震災(戦争)復興からオリンピックと万博という流れは日本特有のものなのでしょうか。三度も続くと政府や官僚の企画の独自性の無さが気になります。

 さて、幻に終わった東京博覧会はもう1つあります。平成8年(1996年)に開催されるはずだった世界都市博覧会です。当時の東京都知事だった鈴木俊一氏は、明治43年(1910年)に養蚕技師の息子として生まれます。臥雲辰致氏の「ガラ紡」で育ったと言っていい彼は、東京帝国大学に入学し、卒業後は昭和8年(1933年)に内務省に入り、戦後の昭和33年(1958年)の第2次岸信介内閣では内閣官房副長官として入閣。翌年の昭和34年(1959年)に副都知事となり、昭和39年の東京オリンピック開催関連の計画書をまとめ、副都知事退任後は大阪万博の事務総長を務め、昭和54年には東京都知事に就任します。新宿の都庁、有楽町の旧都庁跡地に立つ東京国際フォーラム、両国の江戸東京博覧会、有明の臨海副都心などは鈴木都政の産物です。

 鈴木都知事は、これからの都市はどうあるべきかをテーマにした博覧会を開発が進む臨海副都心で開催したかったのです。しかしバブル景気の失速からの財政悪化と臨海副都心の開発の遅れから開催見直しの声が多数あがり、平成7年(1995年)4月の都知事選で都市博中止を主張した青島幸男が当選。それでも都議会は開催派が中止派を上回っていましたが、青島都知事は公約通りに中止を決定しました。この時はオウム真理教による地下鉄サリン事件の直後でもあり、爆弾が仕掛けられた荷物が青島都知事宛に送られ秘書の指を吹き飛ばす事件も発生しています。安全確保の点からも中止してよかったのかもしれません。

博覧会の意義

 18世紀末のパリから始まった「博覧会」は、フランス語でも英語でも「Exposition」と書きます。この単語には「解説」という意味もあります。そこから「広く書物を読み物事を見聞きする」という意味の「博覧」を当てはめ「博覧会」と翻訳した明治の知識人はさすがだと思います。ネットは当然として、テレビもラジオも無い、あるのは新聞だけという時代に博覧会は始まっています。
 様々な地域の名産・物産・発明品などが一堂に会するというのは、当時はおそろしく貴重な場所と時間だったと思います。いわば百科事典に掲載されている事項が現物として集まっているようなものです。これを見てしまった当時の人々は、世界の広がりと未来への可能性を間違いなく感じたはずです。

 時は流れ、我々人類は二度の世界大戦を経験し、居ながらにして世界中の様々な情報を手のひら上に引っ張ってくることが可能になりました。便利にはなりましたが、人類が知的になったとはとてもじゃないけど言えません。高性能な機械を使って海底ケーブルや人工衛星経由でデータを引っ張ってくるようになりましたが、中身の大半はお下劣なシロモノです。
 昔と違って博覧会の会場に行かなくとも、未来につながる情報は手に入るわけですが、しかし博覧会の意義が無くなったとは思えません。明るい未来を提示する場というものは必要です。そこから得たものでまた新しい何かを次の世代が生み出していくでしょう。ですから、過去の再現ではなく未来を向いた博覧会を作ってください。

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