「仏教伝来 と その時代」
伊上武夫
八百万、プラスワン
古事記や日本書紀に記述が残る神である大物主(オオモノヌシ)は、三輪山に祀られている神であり日本神話のかなりはやい段階で登場する神です。しかし、この神はいきなり現れてきまして出自がはっきりしません。そして面白いのは、この神は海の向こうからやってきたのです。「海を照らし依り来る神」という描写が残っています。
「海」を「アマ」と読む場合、「アマテラス」になるわけです。天照大神と大物主がイコールとは言いませんが、どこかで伝承が別れたか、またはどこかで混ざった可能性はあるのではないかと思います。考えてみれば、古事記や日本書紀に「新羅から来た」と明確に書かれている天日槍(アメノヒボコ)もですが、日本神話のヒーローである素戔嗚尊(スサノオノミコト)も、渡来した神に数えていいかと思います。というのも、日本書紀の記述では、高天原から日本に来る前に新羅のソシモリに降りているからです。「この地吾(われ)居ることを欲さず」と言って舟を作り日本へ渡ります。ヤマタノオロチ退治はその後です。
今回は、渡来する神々について書いていきます。
聖徳太子の時代
海の向こうのそのまた向こう、遠くインドで発祥した宗教が日本にもやってきます。仏教の伝来です。今では想像もできませんが、これは大事件でした。古代の神々の系譜の延長線上に、当時「大王(おおきみ)」と呼ばれていた天皇があり、その周囲にいる血縁関係の各一族が影響を及ぼしあって、みなさん神々の末裔の意識を持ちながら緊張関係がありつつ安定していたところに、異国の神を国家としてどう扱うかという問題が発生したからです。
海を渡った新羅も、その先の大国である隋も、国を挙げて仏教を保護しています。当時の日本にとって、これは宗教問題というより政治イデオロギー問題に近かったわけです。今で言えば「昔いろいろありましたけど我が国も民主主義国家になりました。お互い仲良くしましょう」と表明して政治体制もそれに合わせないと外交上マズいようなものです。仏教反対派豪族である物部氏と仏教保護派豪族の蘇我氏との対立が深まるなか、用明天皇(聖徳太子の父親)が崩御。その後、物部氏と蘇我氏が天皇家を巻き込んで戦争。蘇我氏が勝った後に崇峻天皇(聖徳太子の叔父)が即位するも、今度は蘇我氏により現役の崇峻天皇が殺害され、女帝推古天皇(聖徳太子の叔母)が誕生。
推古天皇が亡くなった後には影響力が強くなりすぎた蘇我氏が天皇家により殺害され滅ぼされる(大化の改新)という、なかなかに血生臭い時代がやってまいります。
と、政権上層部は騒がしいのですが、一般民衆からしたら八百万もいた神様が少し増えたところで生活も変わらないわけでして、あっという間に神仏習合してしまいます。
とりあえず拝んどきゃいいだけですから気楽なものです。
平安京と陰陽道
さて、日本が政府として仏教を推し進めるとなると、大陸との交渉もスムーズに進みます。明治維新後の政府みたいなもので、列強と足並み揃えた国創りを開始し、新たな帝都を作ります。平安京です。日本は、新しい都を大国「唐」の様式に合わせようとしました。遣唐使を大量に送り情報収集をします。これも明治維新後の岩倉使節団みたいな感じです。蘇我氏を滅ぼした大化の改新(西暦645年)から平安京遷都(西暦794年)まで150年ほどかかっています。今年の令和6年(2024年)が明治維新150年ですので、同じくらいの時間が過ぎたとお考えください。
その長安のコピーである平安京を作ろうとまでするようになったわけですから、海の向こうから相当な数の人やハードウェア(モノ)、ソフトウェア(情報)が入ってきていたはずです。長安から日本へもたらされたものは、大乗仏教や密教だけでなく、風水思想に伴う道教や陰陽道が入ってきました。平安京は風水思想で設計されているのは有名な話です。簡単に説明しますと、混沌から始まった世界が陰と陽が生まれ、そこから木火土金水の五大元素(五行)が生まれ、世界が形作られた、という思想です。
五大元素は互いに関係しあいます。木が擦れて火が生まれ、火が燃え灰が生まれ(土が生まれ)、土の中から金属が生まれ、金属の表面に水が生まれ(温度変化から水滴がつく)、水から木が生まれるという、五行相生(ごぎょうそうせい)と、金属は木を切り倒し、木は根が伸びて土を分断し、土は水を吸収し、水は火を消し、火は金属を溶かすという五行相剋(ごきょうそうこく)の関係です。図に書くとわかりやすいのですが、五行相生で五角形の形に線を引いた後に五行相剋の順に線を引くと五芒星が描かれます。
陰陽師安倍晴明を祀る晴明神社の紋が五芒星なのはこのためです。
ゾロアスター教とネストリウス派キリスト教
そしてこの6世紀から7世紀の日本にはおそらく、ゾロアスター教とネストリウス派キリスト教も入ってきていると思われます。ゾロアスター教は古代ペルシア起源の宗教で、光と闇の戦いという宗教観が後にキリスト教に影響を与えたと言われています。
創始者ゾロアスターはツァラツゥストラとも呼ばれ、こちらの名前はニーチェの著書やリヒャルト・シュトラウスの曲名で聞いたことがあるかと思います。このゾロアスター教が日本に入ってきた証と考えられるのが、奈良東大寺の修二会(しゅにえ)と呼ばれる行事です。
奈良の大仏が鎮座しているのは東大寺の大仏殿で世界最大の木造建築ですが、その北側にある二月堂で修二会は行われます。その中で有名なのが、異国風の頭巾を被った僧侶たちが何本もの火のついた巨大な松明を振り回す「達陀(だったん)の行法」です。巨大木造建築内で松明を振り回して床に叩きつけ火の粉を飛ばしまくります。消防法もへったくれもありません。実際、江戸時代の寛文7年(1667年)に修二会で火災が発生して二月堂は焼失、そしてわずか1年後に再建されています。
それでも続けているのだからさぞや立派な由来があるのだろうと思いきや「密教や神道などを取り込んだ謎の多い行事」というくらいの感覚で千年も続いているようです。この行事がゾロアスター教の流れをくむものではないかという考えを京都大学名誉教授だったイラン学者の伊藤義教氏は唱えました。梵語(サンスクリット語)からイラン語まで研究され、日本のゾロアスター研究の第一人者だった氏がそのように考えていたというのは大きいと思います。また、ネストリウス派キリスト教ですが、ネストリウス派というのは簡単に言えばキリストの解釈を巡って丸ごと異端とされて追放されたキリスト教集団のことです。
異端決定は西暦431年で、その後その一派がササン朝ペルシアに亡命したりアッシリア東方教会を作ったりしますが、唐の長安にも「景教」の名で伝わり寺が作られます。寺は最初「波斯寺」と呼ばれましたが、後に「大秦寺」に変わります。
「波斯」はペルシア、「大秦」はローマ帝国の意味です。自分たちの教えはペルシアではなくローマ帝国発祥だという事です。また、名前を変えた理由には、ペルシア発祥の「祆教」が長安にも来ていた事もあるでしょう。「祆教」とはゾロアスター教です。
ここでササン朝ペルシアについてざっくりと解説しますと、3世紀に今のイランを中心に発展した大帝国で、最大勢力時には東はパキスタン北は中央アジア西は地中海沿岸とエジプトまで拡がり、当然ですがローマ帝国とぶつかって抗争してきました。
しかし西方から台頭してきたアラブイスラム勢力に7世紀半ばに滅ぼされます。これにより、ササン朝ペルシアの国教だったゾロアスター教と、保護されてきたネストリウス派キリスト教の集団が、難民として大量に東へと移動し長安へ逃げ延びたのだろうと思われます。
長安のコピーとして作られた平安京には、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)という長い名前の神社があります。あまりに長いので誰もこの名で呼ばず「蚕の社(かいこのやしろ)」と短く呼んでます。近くの駅も「蚕ノ社駅」となってます。蚕を祀るのですから絹の生産地だったわけです。シルクロードの東端と言ってよいかと思います。
ここは全国的にも珍しい三柱鳥居がある事で知られた神社で、「太秦(うずまさ)」にあります。ローマ帝国を意味していた「大秦」という文字に点がついただけの違いでしかない「太秦」です。太秦はもともと、渡来人の秦氏により開拓された土地でした。秦氏の一族では聖徳太子に仕え支えてきた秦河勝(はたのかわかつ)が有名です。少年時代に父親(用明天皇)を亡くし、叔父(崇峻天皇)殺害時にはまだ22歳の青年であり、その後は叔母(女帝推古天皇)の摂政として権力の中枢に居続けた聖徳太子は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と呼ばれていて、母親が厩戸(馬小屋)を出た時に産気付き聖徳太子が生まれたことからその名がついたと言われています。
もし、渡来人の秦河勝そして秦氏全体が、ササン朝ペルシア滅亡前にシルクロード経由でやってきたネストリウス派だったとしたら、馬小屋で生まれた皇子をどう思ったでしょう。
三柱鳥居は、「神とキリストと聖霊は別の姿だが同一である」であるというキリスト教の三位一体の教えを、それと知らせずに伝えているという説もあります。
現在の我々も、特に由来を気にせずにクリスマスやハロウィンを受け入れています。七夕も七福神も渡来してきた伝説でした。あらゆるものを吸収して同化してしまうのが、古来からの日本の特徴なのかもしれません。聖徳太子が定めた十七条憲法は「和をもって貴(たっと)しとする」から始まりますし、ヤマトは「大きく和する」と書きますから。