人類史を変えた植物「ゴムノキ」 | 行政調査新聞

人類史を変えた植物「ゴムノキ」

人類史を変えた植物「ゴムノキ」
伊上武夫

新大陸の樹木

 工業製品として広く普及しているゴム。これは、元々は植物由来の製品でした。ゴムノキは観葉植物としても普及していますので、鉢植えを置かれているご家庭も多いと思います。ですが鉢植えで普及しているのは「インドゴムノキ」と呼ばれる種で、広く産業分野で使われたのは「パラゴムノキ」と呼ばれる種になります。今回は、植物でありながら工業分野に普及した「ゴムノキ」について語ってみたいと思います。
 「ゴムノキ」はコロンブスによって「発見」されました。1492年に新大陸を「発見」したコロンブスは、資金援助を受けて翌1493年に2度目の(当時はまだインドだと思われていた)新大陸へ向けて出航します。この時立ち寄ったハイチで、原住民の子供たちが黒いかたまりで遊んでいるのを見つけます。やたら弾力がありよく弾むそのかたまりは、樹液を固めて作ったものでした。

 コロンブスにより、その不思議な物質はヨーロッパに紹介されます。ジャガイモ、とうもろこし、カカオ、タバコなどと同様に、ゴムも新大陸からヨーロッパに伝わった植物のひとつになります。しかし食用にならないゴムノキは、樹液を固めてボールをオモチャにするか、パンの代わりに鉛筆の文字を消すくらいの用途しか当時はありませんでした。(鉛筆は1616年までに、消しゴムは1770年に発明されます)それが一変するのはコロンブスから300年後の1800年代、産業革命の時代になってからです。

産業の材料としてのゴム

 1824年、薄くのばしたゴムを利用して防水性のある服が作られるようになりました。現在も製造販売が続く英国マッキントッシュのレインコート、ゴム引きコートです。生地と生地の間にゴムを塗りつけて防水性を高めたマッキントッシュのコートは、雨の中傘もささずに外出するあの英国スタイルに合致し、イギリス全土にゴム防水コートは広まります。とはいえ、ゴムを塗る事で防水性を高めるという方法は、古代アステカから中南米では行われており、アステカに車輪が無かったのと全く逆の、イギリス版車輪の再発明になります。

 新しい用途が普及すれば、当然ですが不平不満、もとい欠点も見つかります。夏は熱でベトつき冬は寒さで固まってしまうという、寒暖差の影響を受けやすいゴムの性質をどう克服するか、これが産業界の課題となってきました。
 1839年、アメリカの発明家グッドイヤーが硫黄を加える事で改良に成功します。これはゴムの歴史を語る上で外せない発明なのですが、たいていは「グッドイヤーが硫黄を加えて改良した」くらいの記述しかありません。それも「偶然発見した」部分だけ取り上げていたりします。そこに至るまでの話が実に波瀾万丈なので、しばらくお付き合いください。

 1800年に農家の長男として生まれたチャールズ・グッドイヤーは、成長して機械を学び、そして農具関連の鍛治店を開きます。工業新素材であるゴムの可能性に関心が高かったグッドイヤーは、ゴム製浮き輪のメーカーに自分で品質改良した製品を持ち込み、販売してもらいます。しかしグッドイヤーもメーカー側も自信があったこの浮き輪は、逆にクレーム殺到で返品の山を築く事に。温度差による品質劣化が問題でした。負債を抱えたグッドイヤーはあろうことか投獄されてしまいます。

 資本主義は怖いです。それでもグッドイヤーは研究をやめません。様々なモノをゴムに加えて熱して加工しての繰り返しの日々が続きます。家財を売り払って家族と別れ、それでも研究して出資者を募ります。何種類もの有毒ガスにまみれた生活はグッドイヤーの健康を害するようになり、ついには実験中に窒息死寸前になります。ゴムのベタつきを抑えるため、乾燥剤として酸化マグネシウムや石灰など、さまざまな物質を混ぜて加工する実験を行い、硝酸に浸すことでゴムが比較的安定する事を発見します。
 この発見でまた出資者が増え、ゴムを使用した衣類や靴などの製造が開始され、グッドイヤーは家族と再び一緒に暮らすようになります。しかし1837年の経済恐慌が全てを奪い、グッドイヤーは再び破産します。それでも品質改良の研究を続けたグッドイヤーは、硫黄を混ぜたゴムを加熱させることで、ベトつかず革のように弾性のある安定した状態となる事をついに発見します。

 1839年のことです。しかし偶然に発見したため、どの程度混ぜてどの程度加熱すれば実用に耐えるのか、更に実験を繰り返す日々が続きます。
 借金が増え、子供が亡くなり(12人のうち6人が幼少期に死亡)、それでも研究を続けたグッドイヤーは、加熱の温度と加圧のベストの割合を突き止め、1844年にアメリカで特許を取得します。しかしこの後も、信じていた相手に硫黄を混ぜる秘密を知られ勝手にイギリスで特許を取得されるなど仁義なき戦いが勃発し、グッドイヤーは数十の裁判を抱える事になります。

 グッドイヤーは南北戦争のおこる前年の1860年に亡くなりますが、最後まで借金まみれの人生でした。なお、グッドイヤーの死後38年後、「グッドイヤー・タイヤ・アンド・ラバー・カンパニー」と命名された会社が誕生します。現在のグッドイヤー社の前身です。グッドイヤー家とは血縁関係はありませんが、彼の業績を称える意味でこの名前がつけられたそうです。グッドイヤーが訴訟まみれになったという事は、ゴム製造の模倣と改良が始まった事も意味しました。
 1769年に蒸気自動車が、1870年にガソリン自動車が開発されます。それでもまだ鉄道のような車輪が使用されてましたが、1887年にスコットランドのダンロップが空気入りタイヤを開発します。これによりガソリン自動車と空気入りタイヤの組み合わせが誕生します。タイヤなのに変な言い方ですが「軌道に乗って」きました。時は流れ、馬車とガス灯の時代が終わりつつあります。

近代戦争とゴム

 1812年のナポレオン戦争の時ネヴァ川とセーヌ川が爆破されます。埋め込んだ地雷が電線ケーブルを使ってロシア側により遠隔爆破されたのです。
 この時、ゴムにより表面を絶縁された電線が使われました。ゴムの水中での絶縁能力が新たな戦術を生んだのです。当然ですがイギリスもゴムの戦略的価値を理解していました。イギリス人探検家ウィッカムは1876年、ゴム輸出で儲かっていたブラジルからゴムノキの種7万粒を密かに持ち出します。
 その後どういうわけか、ブラジルと気候が似ているイギリスの植民地であるインドシナ半島でゴム栽培が始まります。不思議ですね。またこの時代のゴム農園栽培では、コンゴの悲劇は無視できません。アフリカ大陸のど真ん中にあるコンゴは、アフリカに遅れて参入したベルギーが植民地にしました。正確に言えばベルギー国王レオポルド2世の私的領地となったのです。
 当初は象牙の輸出くらいで赤字経営だったコンゴでしたが、ゴムの需要が生じた途端に富を生み出しました。しかしイギリスと違ってベルギーは「逆らう奴隷、ノルマ達成できない奴隷は手足切断」という無茶苦茶なやり方で支配していました。ミャンマー北部のKK園区がテーマパークに見えてしまうレベルの非人道的なやり方は、さすがに当時のヨーロッパからしても非難の的になります。イギリス人ジャーナリストのエドモント・モレルがコンゴの恐るべき実態を調査して「赤いゴム」という本を出版し告発します。これにコナン・ドイルやマーク・トゥエインなどが同調してベルギーに対する非難声明を出すのですが、レオポルド2世は反対派のスキャンダルを見つけて脅してくるというサイテーな対抗策を取ります。

 弁護士を使って更なるサイテー行動に出ようとしたレオポルド2世は、この弁護士も気に入らなかったようでトラブルになります。腹に据えかねた弁護士は、内情を映画「市民ケーン」のモデルにもなった新聞王ハーストに提供。その後、アメリカやイギリスなどがこの問題でベルギー政府に圧力をかけ、ベルギー政府はコンゴを「ベルギー領コンゴ」とすることで国王レオポルド2世からコンゴを取り上げました。なお、当時のコンゴの国名は「コンゴ自由国」というもので、ナントカ民主主義人民共和国をはるかに超えるブラックなセンスです。

 とにかく、ゴムは世界的に重要な産業資源となり需要が拡大していきます。そして、世界では日清戦争(1894年〜1895年)、日露戦争(1904年〜1905年)、第一次世界大戦(1914年〜1918年)と戦争が続きます。戦場はゴムタイヤの車が走り回り、飛び回る飛行機のタイヤにもゴムが使われ、ゴムで絶縁された電線を使って通信が行われるようになります。歩兵のライフルや靴底をはじめ、陸海空のあらゆる兵器にゴムは欠かせないものとなります。
 兵器を作るために工場はフル稼働しますが、工場へ電気を運ぶ送電線にもゴムは必要です。ゴムの需要はますます増加します。そして1941年、第二次世界大戦が勃発します。日本は東南アジアから欧米列強を追い出します。

 東南アジアの石油や鉱物資源と同じくらいにゴムは重要な戦略資源で、日本の南進論の主要課題でありました。東南アジアからゴムが入手できなくなった連合国側は焦ります。ゴムの9割をイギリス経由で入手していたアメリカは、急遽合成ゴムを国家による開発プロジェクトとして位置付けました。
 それまで発明はされていたけれど技術やコストなどの問題から、ナチスドイツですら年間11万トンの生産だった合成ゴムを、アメリカはなんと終戦までに82万トンもの生産にまで拡大させました。
 合成ゴムの製造は、第二次世界大戦の終結後にアメリカ政府の管理下から民間へと開放されます。続々と植民地が独立するのと同時に、需要は天然ゴムから合成ゴムへとシフトしていきます。グッドイヤーが天然ゴムに硫黄を加える加硫法を開発してから第二次世界大戦終了までが100年です。
 たった100年でここまで普及した産業素材というのもそうそう無いでしょう。天然ゴムから合成ゴムへと、ゴムの主役は移動しました。これにより、ゴムノキの需要も観葉植物としての方面に移っていきました。
 花屋の店頭やオフィスなどで、鉢植えにされたゴムノキを見かける事があったら、今回書いた波乱に満ちたゴムノキの歴史を少しだけ思い出してください。
 目の前の鉢植えの植物は、かつて争奪が地球規模で繰り広げられた人類史の主役の末裔なのですから…。

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