■東松山市の印鑑登録証明書盗用を無視黙殺! | 行政調査新聞

■東松山市の印鑑登録証明書盗用を無視黙殺!

■さいたま地方裁判所熊谷支部の手抜き判決に学ぶ…
■市民が常に行うべき「行政犯罪対策」

平成29年8月18日、さいたま地方裁判所熊谷支部がある事件の判決を言い渡した。
平成27年(ワ)第408号・土地所有権確認請求事件である。東松山市民のT氏が原告として、東松山市を訴えたこの裁判で、大槻友紀裁判長は「原告の請求を棄却する」という判決を下した。
本件事件に至るT氏と東松山市(特に同市長・森田光一氏)との闘いの経緯の詳細は、本紙既報の特集記事を参照して頂きたい。

東松山市による驚愕の行政犯罪! 市民圧殺の実態を暴く

行政による印鑑登録証明書の不正取得は「問題なし」という司法判断

しかし、この判決はT氏が訴えた東松山市による不正な行政手続きについて、初めから審理する気がないも同然の、手抜き判決と断じて相違ないほど杜撰な判断である。要約すれば、この裁判において大槻友紀裁判長は、市行政ないし市の職員が作成する公文書やその手続きに対して「市が不正を働く理由もないし、不正を働くはずもない」という予断を前提にして、ほぼ無条件に行政の言い分を鵜呑みにし、東松山市民であるT氏の主張を退けたのである。
大槻裁判長による判決文では、まず本件事件で極めて重要であるはずの「東松山市によるT氏の印鑑登録証明書不正取得と無断使用」について、ほとんど無視黙殺とも言える判断が示されているのだ。

「判決文」

判決文8ページ後段から記載される「第3 当裁判所の判断・2 争点(2)について・2のウ」では、さいたま地方裁判所熊谷支部の大槻裁判長による次のような判断が示されている。

「ウ 原告は、被告は原告の印鑑登録証明書を無断で取得し、土地登記承諾書に押印だけをさせ、住所や氏名を被告が記入するなどした上で、5033番15の土地の所有権移転登記手続をした旨主張する。原告の主張する事実の存否はともかくとして、これらの事実の存否が5033番15の土地の所有権の帰属に影響するとは認められず、原告の主張は採用しない。」(※赤文字掲示は本紙による)

本件事件において、東松山市がT氏の印鑑登録証明書を無断で取得し利用したとするT氏の主張は、本件T氏の訴え全体に対して重大な関係があることは言うまでもない。すなわち、行政が不法行為に利してT氏の主権を侵害した疑いがあるのであれば、裁判所はそれを審理しなければならない。
ところが、本件裁判において大槻裁判長は、T氏主張の印鑑登録証明書無断取得と使用の疑いを「それがあろうがなかろうが行政の方が正しいのだ」と言っただけに過ぎないのである。
印鑑登録証明書を本人以外が取得する場合には、本人直筆・押印の委任状が必要になる。T氏は本件に関して自ら印鑑登録証明書を申請していないし同意もしていないと主張しており、委任状の存在も明らかにされていない。東松山市が本件手続きにおいてなんらの違法性もなく公正であったと主張するならば、反論の証拠としてT氏による委任状等を提出しなければならないはずだ。ところがそれは示されなかったのだから、東松山市行政が不正を行わなかったという証拠はなにもない。
行政が「本人の同意があった」と主張するならば、T氏による市の職員に対する委任状がなければならず、行政側の反論の証拠となるべき公文書が存在しないのに大槻裁判長は、そもそも公職者による市民個人の印鑑登録証明書の無断取得という犯罪行為があろうがなかろうが「問題ではない」と言っているのだから驚くばかりだ。

本件事件の経緯を詳細に理解すれば、東松山市によるT氏の印鑑登録証明書無断取得とその利用が行政の重大な瑕疵であることは明白であるにも拘わらず、この裁判官は「土地所有権確認」という争点を逆手に取ったかたちで、東松山市の行政犯罪である疑いに触れることを恣意的に回避しているとしか見受けられない。
本件は刑法上、印鑑登録証明書の盗用である「文書偽造の罪」に該当するはずだが時効は7年、土地境界問題それ自体も20年という時効の壁がある。しかし、本件のような行政ぐるみによる確信犯的な瑕疵の隠蔽に対して、司法が微塵もその疑いを抱くこともなく「それは関係ない」などと判断することが妥当であるとは思えない。

日本の司法制度それ自体の問題

ところで、裁判というものは「争点」に関係しないことは争わない。判りやすくいえば、殺人事件の裁判では、同じ犯人が起こした詐欺事件は審理対象ではないから「争点」ではなくなる。
しかし一方で、心象というものは裁判官にも作用する。同じ殺人容疑者であっても、それまでの素行になんら問題がない人間と、前科前歴がある被疑者では当然、判事の心象は違う。はっきり言うが「裁判官に先入観がなく、公平な審理を行っている」などというのは大きな嘘である。

さて、本件事件ではどうか?この裁判は、数人の裁判官(通例では3名)が審理を行う「合議制」裁判とは違い、ひとりの裁判官が行った単独裁判だ。つまり、判決文に「当裁判所の判断」などと書いてあるものの実際には、さいたま地方裁判所熊谷支部の「大槻友紀裁判官1名の判断」なのである。このことは実は大きな意味を持っている。
あらゆる裁判は合議であれ単独裁判であれ、「裁判所」という施設が機械的に審理するわけではなく、当たり前のことだが裁判官という人間が判事としての自分の考えに基づいて訴訟を指揮し、判決を書くものだ。
従って、世の中の人々が漠然と「司法判断の結果だからしょうがない」と考えることは、これが特にひとりの裁判官の判断によってのみ判決される単独裁判事案の場合、判決の正当性を無条件に評価することは民主社会にとって危うい誤解となる。

ここで本件裁判の裏事情を知る必要がある。被告・東松山市には3名の担当課職員が名を連ねる。T氏の話によれば、市職員は市の顧問弁護士からの助言を受け当該裁判に臨んでいたようだが、原告のT氏は代理人弁護士が不在の本人訴訟で闘ったのである。T氏は弁護士に委任する資力にも乏しく、人権派弁護士を探して頼むという方法も考え及ばなかったからだ。T氏はむしろ、市民の純粋な善意だけを頼りに「裁判所なら判ってくれるはずだ」と司法を信じて裁判に臨んだ。もちろん、裁判に至る前までには、議員や当の森田光一東松山市長との本件問題に関する直談判など、T氏の孤軍奮闘が長年続いたのである。
本件大槻裁判官が恣意的に東松山市を擁護したとまでは考えたくはないが、そもそも裁判官の仕事は捜査や調査ではない。紛争当事者同士が提出する書類だけを判断基準に審理を進めるのであり、その際「弁護士もいない素人市民」「公的機関である市行政の代理人」の主張に対して、裁判官が先入観とある種のルーティンワークとして、T氏の主張を退ける判断に傾くことは当然、想定されるべきことである。だからこそ、日本にも形式的には三審制があるのだが、司法現場の実際としては「一審判決」がそのまま援用されることがほとんどだ。
凶悪犯罪事案以外に「裁判員制度」が適用されない日本の司法では、市民の社会通念上の判断や推認が実効的に働く余地がなく、本件のような事件は、行政がとぼけてさえいれば市民の側は敗訴する。東松山市は顧問弁護士を雇用しているが、本件のように行政が市民の主張を排除するための法務費用も、主権者である市民の税金から支出されている事実を、市民社会は忘れてはならない。

行政犯罪に対する、具体的な市民の対抗策

では、本件のような行政犯罪が疑われる市政の横暴を抑止するための、市民側が持てる具体的な対抗策とはなにか?
まずひとつには市議会が正常に機能することだ。本件T氏の事案も、一審判決までの長い道のりの間に市議や国会議員が錯綜し、ましてや森田光一東松山市長に至ってはT氏や関係者に直接、解決の約束までしている。それでいながら、T氏の主張は無視黙殺同然に放置されたのである。
本来、このような問題にこそ真剣に取り組むべきが市議会の責任だが、その職責を果たさない「バッジだけの市議」ばかりでは市政の腐敗と横暴は止むことがない。これは同時に市議を選出する東松山市有権者の責任でもある。市政や司法に対する、漠然とした信頼感や公平性などを期待せずに、常に厳しい権力監視の努力を市民側が怠らないことが重要だろう。
もう一点は、行政担当者との会話や通信を記録として保存することも対抗策の一助となるはずだ。現在では、ICレコーダーなどの小型で高性能な録音機器が数千円で購入できる。録音されている相手も、そうとは気がつかない。
仮に本件T氏が、森田光一市長の言質を含めて東松山市行政担当職員とのすべての会話や通信記録を物的に保存していたならば、形勢はだいぶ違っていたかもしれない。法律家によれば、日本の司法では録音物さえ証拠能力としては必ずしも高く評価されない傾向にあるともいうが、それでも当事者の言葉が記録されていれば、少なくとも行政がデッチ上げた公文書の信憑性が問われる可能性は残されるはずだ。

森田光一東松山市長を断じて許してはならない

本紙既報の記事にも述べた通り、行政は組織防衛の観点から自らの過ちを口裏合わせで風化させ逃げ切ることが可能である。本件T氏の孤軍奮闘には敬意を払うに値するものだ。
予てから本紙がT氏の主張を信じて東松山市の不正を追及してきた根拠は、T氏が申請していない、存在しなかったはずの「印鑑登録証明書」「存否」が明らかではないという一点だけでも十分だからだ。裁判には控訴期間があり、現裁判所の判決に不服であれば、その言い渡し日から14日以内に控訴しなければ、2度と裁判が出来なくなる。生活さえ苦しく一審での弁護士もつけられなかったT氏は控訴にも臨めないまま本件では敗退を強いられた。 
あえて言うならば東松山市・森田光一市長は「逃げ切った」のである。
しかし、司法制度上の勝訴が必ずしも「正しさの証明」ではないことは、控訴審や最高裁判決などに数ある裁判例にも明らかだ。ことに本件のような行政犯罪の疑いが強い事案、少なくとも「行政の不作為」に対しては、その不作為の状態が継続している以上は時効の開始が成立しないという考え方がある。
つまり、本件T氏が民事裁判で主張を棄却されたからといって、森田光一東松山市長が口を拭って「やれやれ、やっと終わった」と幕を下ろすことは許されない。市民であるT氏が行政に被害を被ったと主張する限り、市政は行政努力として現況の改善をしなければならない。またそれが選挙で選ばれた首長の責務である。

森田光一市長は、過去、T氏に対して本件事案の解決を約束した。私人としてではなく市長としての公言であるから、大槻裁判官がT氏の主張を棄却したからといって、市長としての責任から放免されたことにはならない。本件地裁判決は、裁判所を信じて訴えを起こしたT氏の裁判において、裁判官の判断が示されたに過ぎないものであって、より重要なことは、本件の本質は東松山市行政が市民という主権者の申し立てに真摯に取り組み、いかに終決させるかという行政問題であるという点だ。
森田光一市長が本件裁判の結審を口実に、この本質を放置するならば東松山市民は断じて、このような市長を許してはならない。裁判所が市民の主権を軽視したとしても、裁判官に参政権があるわけではない。
記憶に新しい都議会選挙の自民党大敗が象徴するように、有権者の厳しい権力監視の眼と判断による投票行動だけが腐敗した行政を刷新できるのである。
健全たるべき行政運営を腐敗せる行政に堕としめた森田光一東松山市長を断じて許してはならない。

T氏が判決後、森田光一東松山市長に提出した「申し入れ書」