佐藤鐵太郎 海軍中将 忘れられた「海主陸従」の国家戦略家 ―後編― | 行政調査新聞

佐藤鐵太郎 海軍中将 忘れられた「海主陸従」の国家戦略家 ―後編―

忘れられた「海主陸従」の国家戦略家

―後編―
藤 井 厳 喜
(国際政治学者)

何故、海主陸従の国家戦略は主流となれなかったのか

 そもそも佐藤鐵太郎の唱えたような国家戦略、そして国防論が主力となっていれば、対英米戦は避けられたであろう。そもそも日本は何故、1941年、対英米戦に踏み込んだのだろうか。その理由の第1は、主にチャイナ問題である。日本は日露戦争以降、朝鮮半島から満洲、そしてシナ大陸に所謂植民地的な特殊権益を築いてきた。当初は他の帝国主義国家と適度なバランスをとり、相互に牽制しあいながらやってきたのだが、英米は日本がチャイナ利権を独占するのではないかと疑心暗鬼となった。
 朝鮮半島の併合に関しては、英米両国ともこれを承認した。満洲国の建国(1931)となると、相当な反発はあった。しかし満洲が所謂チャイナの国内ではなく、清朝を建てた満洲民族の発祥地だということで、イギリスにもアメリカにも満洲国の存続をアジア安定の要素として認めるべきだとの世論は、ある程度、存在した。問題は日本が万里の長城を超えて、元来が漢民族固有の地域に進出してしまったことである。日本を警戒した蒋介石は英米を味方につけて、日本に対抗した。生まれたばかりの毛沢東の政権は、ソ連をバックに共産党支配圏をチャイナ国内で築いていた。やがて米英ソが提携しチャイナ国内では、毛沢東の共産党と蒋介石の国民党が提携して反日戦線を築いた。
 ハルノートの要点は、日本軍に満洲およびチャイナ国内から撤退しろということであった。これが受け入れられないので、日米交渉は挫折し、日本は開戦に踏み切らざるをえなくなった。単純に言えば、チャイナ利権の取り合いで、日本は英米と開戦したのである。
 フィリピンの取り合いでアメリカと戦争する羽目に陥ったわけでも、イギリスの植民地であるインドやビルマ、マレーシアを解放しようとして日本はイギリスと開戦したわけでもない。一言でいえば、チャイナ利権の取り合いが原因となり、日本は対英米戦を戦わざるを得なくなったのである。

 佐藤鐵太郎が日露戦争後に予見していたように、ユーラシア大陸への進出はやがて国を滅ぼすこととなったのである。勿論、その背後には、北侵論を阻止しようというソ連コミンテルンの謀略があり、そしてアメリカを一刻も早く第二次世界大戦に参戦させたいというチャーチル・ルーズベルト・蒋介石の謀略もあった。
 しかし日本がチャイナに膨大な経済権益と支配地域を所有していなければ、そもそも英米と決定的に対立する理由はそこに生じなかったのである。ユーラシア大陸内の利権争奪戦に過剰に介入したことが、結局、対英米戦を必然にしてしまったのだ。佐藤の警告と予見は恐ろしいほどに正確であった。

では何故、
「海主陸従」が戦前の日本でも主力となれなかったのか 

 実は、『帝国国防史論』が発刊された1908年(明治41年)から、1914年(大正3年)、つまり第一次大戦が始まるまで日本の国家戦略はどのようにあるべきかを巡って、一大論争が続いていた。佐藤の陸軍に対する批判は徹底しており、陸軍関係者の激しい反発を招いた。しかし佐藤支持の論調には、力強いものがあった。『帝国国防史論』の完成版は明治43年刊行だが、その初版は明治41年に刊行されている。翌明治42年には、伊藤博文が『帝国国防史論』を読んで感動したというので、漢詩を作成し、この著作を絶賛した。
 私が現在、持っている原書房復刊の『帝国国防史論』の冒頭にも、伊藤博文の自筆の漢詩がフォトコピーされ、そのまま載せられている。
 明治35年の『帝国国防論』が山本権兵衛海相の配慮で明治天皇に献本されたことは既に述べたとおりだ。国会議員にも配布され、佐藤自身が「相当に強い影響を生じた」と自認するほどの反響があった。しかし反発も激しく、海軍兵学校同期の鈴木貫太郎海軍大将は、山縣有朋陸軍元帥がこの書を読み、大層立腹したとの回顧談を残している。

 何といっても戦前の日本では、陸軍の政治力が巨大であった。初めは長州閥の陸軍であったが、昭和に入ると長州色はかなり薄れている。陸軍が日本国内最大の政治組織であり、その影響力が海軍よりも巨大であったことは否定できない。陸軍自身が日本国内の独立国のような感があった。
 更に昭和2年の不況、それに加えて更に昭和4年から始まる世界的大不況は、工業国家、そして海商通商国家としての日本の発展を難しくした。よく知られているように、世界はブロック経済化してしまったのだ。日本は満洲国建国というニューディール政策に国運を賭けた。そしてある程度、それは成功したのである。しかしその先がまずかった。
 日本は万里の長城を超えて、漢民族の権謀術数が渦巻く世界に覇権を拡げようとして、結局、泥沼に足元をすくわれてしまったのだ。世界的大不況からの脱出として、満洲を中心とする日本のニューディール政策はそれなりに功を奏した。満洲国建国が昭和6年(1931年)。昭和9年、10年、11年は戦前の日本経済のピークであった。日支事変が始まる昭和12年から日本は戦時経済色が徐々に濃くなってゆく。こういった状況の中では、海主陸従の原則的海洋国家戦略論に耳を傾ける者はいなくなってしまった。次に海軍内の分裂ということが考えられる。 

 佐藤の思想は、根本的にマハンと同様で、海軍は必ずしも艦隊決戦を行なう為にあるのではなく、平時から海洋通商網を確保することも、その大きな目的であった。マハンよりも寧ろ、イギリスの海洋戦略家コルベットに近いと言えるかもしれない。それはともかく、海軍内でも日本海海戦を過大評価し、海軍は艦隊決戦の為に存在するのだと信じる人々も多数いた。やがて海軍内にも対米強硬派が生まれ、日米英3大海洋国の提携によるアジア太平洋地域の安定の維持という佐藤鐵太郎の構想は、全く実現不可能となってしまった。佐藤は元より明治の軍人であり、英米に対する幻想ももっていなかった。
 アメリカは「東隣の友邦」で絶対に戦ってはならないが、移民問題などで侮られるように海軍の増強が必要であると訴えた。佐藤は、日本海軍は「8・8艦隊(戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻)」を創設し、アメリカの対日攻撃を抑止すべきだと訴えている。これが1907年の構想である。

 以上まとめてみると、佐藤の海主陸従の戦略論が主流となれなかった理由は、第1に陸軍政治力の巨大さ、第2に朝鮮併合から満洲建国というレールが敷かれてしまった為、大陸進出警戒論が否定されてしまったこと、第3に海軍内の分裂があげられる。戦前の陸軍と海軍の政治力を比較すると、陸軍が7、海軍が3くらいの比率である。様々な文献を読んでの、漠然たる印象ではあるが、陸軍と海軍の政治力がそもそも対等であったわけではない。
 それに大東亜戦争の直前となると、その海軍の影響力も中で分裂してしまった。これでは対米抑止力、即ち対米不戦を暗黙の不文律としてきた海軍の原則が守れるわけがない。今日の言葉でいえば、佐藤鐵太郎は海軍の役割を3つに分けて考えていたように思う。

 1番目は抑止力である。外国が日本を侵略しないように、戦争を防ぎ、万が一戦争が始まった場合は戦力を行使して、日本本土を守る力である。
 2番目は持久戦における勝利である。これはイギリスが海洋封鎖によってナポレオンを打倒したように、長期の経済戦争において日本を勝利に導く力である。3番目が自国に有利な国際海上貿易の維持である。
 この3つの役割は今日においても、日本の軍事力に求められる基本的な機能である。佐藤鐵太郎の国防論を21世紀の日本の国家戦略の基礎とすべき理由がここにある。現在でいえば、日本には海空を主力にして、陸を従とするような国防戦略が必要である。経済戦略的には、チャイナ・ロシア・朝鮮半島には深入りしないような、国家経済戦略が望ましい。現在の日本は経済的にもチャイナへの進出が過剰であり、これが日本経済を大きく束縛している。
 戦前の過ちを繰り返さない為にも、脱チャイナそして内需拡大、更に自由主義国家群との連携が必要である。マーケットの拡大も資源の入手も、海洋国家との連携においてこそ永続的な繁栄が可能である。全体主義・独裁主義的なチャイナやロシア・朝鮮半島には、希望を見出すことは出来ない。

 現在、「クワッド(日本・米国・オーストラリア・インドの4か国で構成される、安全保障のための国際的枠組み)」が日本の国防の柱の1つとして重要性を増している。日米安保に加えて、この日米豪印の連携が対中包囲網を形作り、また将来の自由貿易圏構想とも重なってくる。日米豪は勿論、海洋国家であり、更にインドも本質は海洋国家である。インドはインド亜大陸に存在するがインドの北方は、ヒマラヤ山脈やヒンズークシ山脈によってユーラシア大陸本部とは高い壁で隔てられている。インドの国際貿易は主に海洋を経由して行なうしかない。その点で、クワッド4か国はいずれも海洋国家なのである。
 この海洋国家の連携によって、大陸の独裁国家チャイナを包囲してゆくというのが、現在の日本の戦略の柱の1つである。佐藤鐵太郎の海洋国家戦略は、今日においてこそ、新たな生命を獲得しているのだ。

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