「太平洋戦争」にだまされている日本
―日本がアメリカに従属し続ける真の理由―
今年8月15日は 「79回目」 の終戦の日だ。この79年間、アメリカに支配され続けてきた日本は、いつになったらアメリカから解放されるのだろうか。
「太平洋戦争」に敗けた日
昭和20年(1945年)8月15日の正午、ラジオから天皇陛下のお言葉が流された。
「玉音(ぎょくおん)放送」である。「…非常の措置をもって時局を収拾せむと欲し…」というお言葉を耳にした日本人は、その時、日本が戦争に敗けたことを理解した。
無条件降伏を求めるポツダム宣言を日本が受けいれたのは、玉音放送前日の8月14日。米軍が厚木飛行場(神奈川県)に初めて進駐したのは8月28日。アメリカの戦艦ミズーリ号で降伏文書が調印されたのは9月2日だが、日本では8月15日を終戦の日としている。降伏文書に調印し、日本が正式に敗北を迎えてから半月後の9月17日、GHQ(連合軍最高司令官総司令部)は「プレスコード」を発令した。プレスコードとは、報道の際に使用できない言葉を定めたものだ。「神国日本」とか「英霊」「八紘一宇」という言葉は禁句となった。「大東亜戦争」や「大東亜共栄圏」も使えなくなった。
プレスコードに違反した新聞や出版物は、ただちに回収・廃棄を求められる。新聞社や出版社にとって、回収処分は倒産を意味する。プレスコードで放送局、新聞社、出版社は震えあがったが、一般市民は食べることに精いっぱいで、言葉に気を使う者はいなかった。「太平洋戦争」という言葉は、12月7日の朝日新聞に初めて登場した。
日本人は長い期間、自分たちが戦っている戦争は「大東亜戦争」だと思っていた。それがある日、突然「太平洋戦争」と呼ばれることになった。敗けた戦争の名前が「大東亜戦争」から「太平洋戦争」に変えられたことに、違和感を持ちながらも「敗けたのだから仕方ない」とあきらめの心境だった。翌12月8日(開戦記念日)から、日本中のすべての新聞に『太平洋戦争史』という連載記事が掲載された。GHQが作成した記事である。
これ以来、「太平洋戦争」という言葉が使わられるようになった。
ちなみに天皇陛下が太平洋戦争という言葉を使われたことはない。昭和天皇も、平成の明仁天皇(現上皇)も、今上陛下も「先の戦争」「先の大戦」と口にされる。政府も戦後から一貫して「先の大戦」あるいは「第二次世界大戦」と表現し、太平洋戦争といったことはない。プレスコードは昭和27年(1962年)4月28日で失効した。この日から、禁止用語はなくなった。戦争の名を太平洋戦争と呼ぼうが大東亜戦争と呼ぼうが…あるいは第二次大戦極東戦と呼ぼうが…日中十五年戦争と呼ぼうが…法律や規則にひっかかることはない。どんな言葉をつかっても、問題はまったくない。
それでも、小学校、中学校の義務教育では太平洋戦争と教えてきた。令和に入ったごく最近になって、一部の教科書で「アジア・太平洋戦争」と表現するものも出始めたが、戦後から平成の時代に小中学校を過ごした日本人は太平洋戦争という言葉しか習わなかった。太平洋戦争としなければ、テストでは × になった。
閣議決定の名称は「大東亜戦争」
昭和16年12月8日(日本時間)に戦争が始まった。開戦の前日12月7日午前3時ころ、イギリス領マレー(現マレーシア)沖を進軍する日本艦の船団にイギリス機が接近、日本軍の陸軍機が撃墜したが、これは開戦前の事件。山下奉文中将が率いる陸軍部隊2万名のうち、5,500名が12月8日午前1時半にイギリス領マレーに上陸、午前2時30分に進撃を開始した。これが英米などに対する戦争の始まりである。
細長いマレー半島の北部に上陸した日本軍は、イギリス軍の予想をはるかに越えたスピードで南下し、シンガポールを目指した。シンガポールは東洋最大のイギリス軍の要塞で、難攻不落を誇っていた。北部マレーに上陸した日本陸軍は「銀輪部隊」と呼ばれ、自転車で進軍した。日本軍の歩兵が徒歩でマレー半島を南下してシンガポールに向かうと予測していたイギリス軍にとって、銀輪部隊のスピードは驚異だった。
イギリス領マレーで日本軍とイギリス軍の戦端が開かれた2時間後、日本時間12月8日午前3時半過ぎ、ハワイの真珠湾を日本軍機が急襲。第一陣189機、第二陣170機がアメリカ軍戦艦に対して次つぎと魚雷を発射。特殊潜航艇からの攻撃も含め、アメリカの戦艦5隻が撃沈、その他戦艦4隻、巡洋艦3隻、駆逐艦3隻が大破。飛行場に駐機していた188機が撃破され、アメリカ兵2,300名が戦死した。
開戦から2日後の12月10日、大本営政府連絡会議が開かれた。(大本営政府連絡会議は昭和12年に大本営がつくられたとき、軍部と政府が情報を共有するために設置された。)
ここで「大東亜戦争」の名前が決められ、12月12日の閣議で「支那事変も含め大東亜戦争と呼称する」ことが正式決定した。政府が決めた呼び名は大東亜戦争である。この閣議決定はその後、終戦後の混乱の中でも変更されることはなく、今日に至っている。政府は一貫して大東亜戦争という名を変えていない。
このとき内閣情報局は戦争の目的を発表している。その目的は2つ。
1 自存自衛(国土防衛)
2 東亜の新秩序形成(「東亜」とは「東アジア」という意味)
終戦を迎えるにあたり、軍部と内閣情報局は、自存自衛(国土防衛)はできなかったが、東亜の新秩序形成はできたと判断した。2つの目的のうち1つは達成できた――。
負け惜しみともいえるが、確かに日本のお陰でアジア各国は西欧列強の支配から脱却できた。日本は1,043回の本土空襲で国土全域が焼け野原となり、挙げ句に広島・長崎に原爆を落とされ、完全に叩き潰された。しかし東アジアの多くの地域は、日本軍の活躍で西欧列強の支配から解放された。
大東亜戦争の目的の1つは、東アジアに新秩序を形成することにあった。「大東亜戦争」と呼ぶことは、日本の戦争目的が東亜(東アジア)にあったことを明らかにする。日本は戦争目的の半分は達成した。その雰囲気を消し去るためには、大東亜戦争という呼び名を変える必要がある。こうしてつくられたのが「太平洋戦争」という呼称だった。
大東亜共栄圏という幻想
日本が戦争に突入していった歴史は複雑だ。歴史は数百年、いや千年以上も連続するものだから、一部を切り取ることは難しい。欧州列強がアジアに進出した理由は、15世紀に始まった大航海時代から読み解く必要がある。行き着いたところが1840年のアヘン戦争(イギリスと中国との戦争)だったのかもしれない。そんな長大な歴史があることを頭の片隅に入れながら、大東亜戦争に至った昭和初期からの動きを見てみよう。
昭和6年(1931年)、中国東北部に「満洲国」が誕生した。紫禁城を追われ、天津(てんしん)で日本の保護下にあった清王朝最後の皇帝、溥儀(ふぎ)を君主に置いた独立国が誕生したのだ。だが欧米列強はこれに猛反発。欧米の圧力に屈し、昭和8年(1933年)日本は国際連盟を脱退する。その後、欧米の締めつけは、どんどん強くなっていく。
昭和14年(1939年)にはABCD包囲網が完成する。ABCD包囲網とはA(Americaアメリカ)B(Britishイギリス)C(China中国)D(Dutchオランダ)による日本包囲網だ。
このとき中国は蒋介石の国民党軍が支配していたが、蒋介石中国は英米仏蘭(アメリカ・イギリス・フランス・オランダ)に支援されていた。
欧米列強に頼りたくない蒋介石だったが、日本と戦うためには欧米列強の支援が必要だ。背に腹は代えられない――仕方なく蒋介石は欧米列強の支援を受けいれ、日本包囲網に加わった。ABCD包囲網により、日本はエネルギーや資源、食糧の調達に苦しむ。エネルギーや食糧をアジアに求めるしかない。だが当時のアジアの多くの国々は、欧米列強の植民地になっていた。独立国といえるのは日本以外にタイなどごくわずかだった。アジアで資源が豊富な国であるマレーシアはイギリス領マレー、インドネシアはオランダ領東インドだった。ABCD包囲網がつくられた翌年、昭和15年(1940年)は、皇紀2600年という記念すべき年だった(「皇紀」とは神武天皇が即位された紀元前660年を元年とする年号)。そこで当時の近衛文麿内閣は、日本の国策として「東亜の新秩序形成」をうたいあげた。――東アジアから欧米を排除して、それぞれの国を独立させようというわけだ。東アジアの国々が独立して大きな連合体をつくる「大東亜共栄圏」の考え方が高らかにうたいあげられた。
大東亜共栄圏という言葉は、国連を脱退するときに演説を行った松岡洋右が語ったものとされる。東アジアを大きな文化圏ととらえ、世界に大きなブロック(地域)をつくろうとする発想は、後藤新平が発案したともいわれる。満洲国がつくられたとき「五族共和」がうたわれたが、この発想は大東亜共栄圏から生まれたものだ。東アジアの諸国、諸民族が対等の力をもって巨大なブロックをつくりあげ、そのブロック内で自給自足を行い、平和で豊かな地域にしていこうという考え方だ。
近衛文麿内閣がうたった「東亜の新秩序形成」とは、東アジアから欧米列強を追い払い、豊かで平和な地域をつくろうとするものだった。大東亜戦争の目的の一つが、この「東亜の新秩序形成」にあった。それだからこそ、戦争の名称は「大東亜戦争」だった。
消された「大東亜戦争」という名
日本軍は、イギリス、オランダなどの連合軍とアジアの地で激戦を繰り返した。
イギリスはマレーを追われ、難攻不落をほこっていたシンガポールを奪われた。オランダ領東インド(現インドネシア)に侵攻した日本軍は、オランダ軍だけではなくオーストラリア軍、イギリス軍と激戦の末に勝利する。ジャワ島やスマトラ島を制覇して、石油資源の獲得に成功したのだ。英領ビルマや英領インドでは開戦以前から独立運動が続いていたが、この独立運動に日本軍が加わり、開戦直後から昭和20年の終戦まで戦闘が続けられた。アメリカ領フィリピンでも、開戦当初は日本軍が圧勝した。
フィリピンは16世紀からスペインの植民地となっていた。スペインから独立するための戦争は19世紀にはじまり、頭山満や宮崎滔天など、多くの日本人がこの戦闘に参加した。19世紀末にアメリカとスペインが戦争をして、敗れたスペインがフィリピンをアメリカに渡したため、独立運動の相手はアメリカになった。大東亜戦争開戦直後に日本軍はアメリカ領フィリピンに攻め入った。アメリカは20世紀初めのころから、日本軍がフィリピンに侵攻すると予測。その後方基地としてハワイの真珠湾に大艦隊を待機させていた。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃は、フィリピンを守るアメリカ艦隊を撃滅するために仕かけられたものだった。昭和16年12月8日には、日本軍はフィリピンの米軍に総攻撃を開始する予定だったが、あいにくの悪天候のため延期。
12月10日に総攻撃がはじまり、1週間ほどでダバオ市、18日後には首都マニラ市を占領。マニラからコレヒドール島に逃げていた司令官マッカーサーは「I shall return(アイ・シャル・リターン 私は必ず帰ってくる)」といってオーストラリアに逃げのびた。
大東亜戦争の目的は2つだった。1つは自存自衛=国土防衛。もう1つは東亜(東アジア)に新しい秩序を形成すること= 東亜を欧米の植民地から解放することだった。
日本の国家戦略が「東亜の新秩序形成」であることは、すでに昭和15年(1940年)の近衛文麿内閣のときに発表されていた。日本人の誰もが、東亜から欧米列強を追い出す戦争の意味を理解していた。一方アメリカは、日本の自存自衛(国土防衛)を潰すことが第一だと考えていた。日本の国土を叩き潰す――そのための作戦が、日本全土を空襲で焼き払うことだった。アメリカ軍が日本空襲のために用意した爆弾が「焼夷弾(しょういだん)」である。焼夷弾という爆弾は、木造家屋が多い日本の民家を焼き払うためにつくられた。それだけではない。国際法に違反する「一般市民を標的」とした爆弾でもあった。
焼夷弾は重油などの油脂でつくられ、爆撃機からじゅうたんのように降りそそぐ。その切れ端が体に付くと、一瞬で衣服を焼きつくして体内に入り込む。1,000度Cを超える高熱が体内を襲い、熱い!熱い!と叫び、川に飛び込む者も多かった。だが焼夷弾の威力は水中でも発揮され、もだえ苦しみ焼けただれて死んでいく。アメリカ軍は焼夷弾爆撃を日本本土で1,000回以上も行っている。特に知られているのが終戦直前の昭和20年3月10日の東京大空襲だ。夜中に行われたこの空襲で、東京だけで11万人以上が焼死、東京の全建物の4分の1が焼き払われている。
その後、4月1日にはアメリカ軍が沖縄に上陸。4月7日に戦艦大和が撃沈。
日本は6月22日の御前会議(天皇陛下臨席の会議)でソ連に講和の仲介を依頼することを決定したが、当時ソ連はすでに米英と密約を交わしており、日本が敗戦を呑み込む姿勢だということだけが米英連合国側に伝えられる。
そんな状況下の8月6日に広島に、9日には長崎に原爆が落とされた。いずれも一般市民を攻撃対象とした非人道的な攻撃だった。日本が白旗をかかげ、終戦を迎えようとしていることを承知で、市民を対象とした原爆を投下、広島で15万人、長崎で7万人以上が殺害されてしまった。アメリカは、日本の自存自衛の戦いを徹底的に叩き潰した。
日本軍の活躍により、東アジアには新しい秩序が生まれようとしていた。オランダ領東インドは終戦直後に独立を宣言した。イギリス領インドは終戦から2年後に、インドとパキスタンとして独立した。イギリス領マレーは終戦の翌年から大混乱期を迎え、1963年に完全に独立を果たす。日本軍の活躍により、東亜(東アジア)の新秩序が形成されていった。「大東亜戦争」の目的の1つ、「東亜の新秩序形成」は成功した。「大東亜戦争」とは、東亜(東アジア)から欧米勢力を追い出す戦争だった。「大東亜戦争」とは、日本軍の意図を明確に表現する言葉だった。「大東亜戦争」という名は、日本がはじめた戦争の意義を示す名前だった。GHQ(連合軍最高司令官総司令部)としては、この名前を消し去る必要があった。そこで生まれたのが「太平洋戦争」という名である。
東亜解放のために戦ったという日本の栄誉を奪い去るために、「大東亜戦争」という名はプレスコード(報道規定)によって消し去られた。だがプレスコードは昭和27年(1952年)4月28日で失効した。しかし、なぜか義務教育の教科書では戦後から一貫して「太平洋戦争」と教えている。
アメリカ隷属が終わる日
昭和20年の敗戦から、日本はアメリカに従属する国になった。現在90歳以上の老人を除いて、アメリカに支配されていない日本を知らない。
90歳以上の人は総人口の1.6%。日本が本当に独立国だった時代を知っているのは、僅か1.6%。残り98.4%――ほとんどの日本人は、アメリカに支配される日本しか知らない。神武景気だ、岩戸景気だ、所得倍増、経済は世界一……などとおだてられ、朝から晩まで、ときには夜を徹して猛烈に働いてつくりあげた日本人の富は、ことごとくアメリカに持っていかれた。それでも敗戦国日本はアメリカを担ぎ上げ、アメリカに従ってきた。アメリカが正義だという自由平等博愛を信じ、アメリカの敵は日本の敵だと信じてきた。この数年で、アメリカの立場は極端に悪化した。
同時に、アメリカに正義がなくなってきた。次のアメリカ大統領がハリスになるのかトランプになるのか、まだわからない。どちらにしても、早ければ数年、遅ければ10年ほどでアメリカはアジアから出ていく。日本を支配する国はなくなる。
東亜(東アジア)から欧米列強を追い出した日本は、自らがアメリカの隷属国家となり、アメリカの代理をやってきた。そのアメリカが消えたあと、日本はどうなるのか。
大東亜共栄圏の幻が実現する時代になる。しかし戦後の日本はずっと近隣諸国と敵対し続けてきた。北朝鮮や韓国といがみあい、中国と対立してきた。アメリカがつくった対立の構図に乗せられ、日本はアジアで孤立してきた。いまこそ大東亜共栄圏、五族共和の理想を取り戻すときなのだ。明確なことが一つある。あと数年か、遅くとも10年で、アメリカがアジアから消えることだ。アジアを先取りする者は勝者となり、アメリカをかつぐ者は敗者となる。それを心に刻んでおこう。■